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山東螳螂拳の大要

螳螂拳大要

達人への道Ⅱ
月刊 秘伝 2010年 09月号2

月刊 秘伝 2010年 09月号2

螳螂拳源流考 其の二

 梁学香先生の長男、梁井川は清朝末期武科挙に合格し、武術は父からその真伝を得て螳螂拳の技法を発展させた。彼の弟子(第5代)は孫の梁振照であり、現在も海洋県于山村に住んでいる。

 梁学香先生の弟子赫連玉は山東省煙台の人で、梁井川とは兄弟であり、螳螂拳の真伝を得て、現在は煙台の赫斌老師がその技を受け継いでいる。

 梁学香先生の弟子姜化龍は山東省莱陽県黄金溝村の人である。彼は元々「地功拳」を学んでいたが、別の拳術に試合で敗れ、武芸の精進の甘さを深く反省し、梁学香先生の門下に入り螳螂拳の修行に身を置いた。十数年して腕をあげた後、煙台で教えた。

弟子の宋子徳と共に梁師螳螂拳の理論を基礎に、長年の拳法修業の精華を合わせて一冊の拳譜を書いた。また彼は一人で第七段摘要と呼ばれる「地功精」の套路を作り、更に「羅漢拳」の中の「翻車」を螳螂拳の中に組み込んだ。

姜化龍は螳螂拳の発展に対して卓越した貢献を行ったのだ。姜化龍は煙台に長年住み、69歳で亡くなった。梁井川、赫連玉、姜化龍は螳螂拳の第四代の伝人である

 ここから太極梅花螳螂拳は三派に分かれ、伝承されていくのである。

 第一の流れは梁井川の教えを受けた黄永凱であり、山東省海洋県の人である。彼は小さい頃から梁家にて螳螂拳を学んだ。民国2年に煙台にて道場を開き、4年後には安東市(現在の丹東市)で螳螂拳を教えた。その後民国10年に一度煙台に戻った。

そこで弟子の林世欽等は、黄永凱に煙台で螳螂拳の教授を続けて欲しいと懇願したが、黄永凱は林が陳徳善より自由博撃術を学んでいることを知り、安東へ帰った。この時以来煙台には戻らず、後に安東にて亡くなった。

 黄永凱の弟子林世欽は山東省煙台の人である。民国2年から黄永凱の下で拳を学ぶこと4年、当時林はまだ14歳であった。その後軍隊に入隊し抗戦時に重慶で開かれた試合に参加している。当時47歳であった。林世欽はこの試合で地方の拳士に及ばず、後に煙台に戻り、解放後に世を去った。

 黄永凱の弟子紀忠徳は煙台の人である。当時は港で働いていた。拳を学んでいた時、赫連玉の子赫恒路と争いとなったが、その後落ち着いた。この為、紀忠徳は上海に出て拳を教えて生活した。

 黄永凱の弟子于世遠は山東省莱陽の人である。安東にて黄永凱の門下に入り、安東で行われた少林武術大会と試合に参加した。また二度ほど日本人との武術試合にも立ち会い、共に勝利した。

後に日本人の報復を避けて吉林臨江林区に至り、鶏西、伊春などの地を転々とし、解放後四平市に居を構え、螳螂拳の多くの套路と「十八羅漢拳」の套路、長・短の兵器を教授し、梁家から伝わった螳螂拳譜と多くの理論の一部を保存した。

于老師は四平市の武術活動の発展に大きく貢献した。于世遠老師は1978年10月17日脳溢血が原因でこの世を去った。享年73歳だった。

以上が螳螂拳の第一の流れである

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四

 

螳螂拳源流考 其の一

 螳螂拳は明代末期から清代初めに陜西省淳化拳士、王朗(字は文成)が作り出し、伝えたものだ。王朗は、カマキリが蝉を捉える巧みですばやい動きと、激しい動きを見て深く感銘を受け、黏、粘、幇、貼、来、叫、順、送、提、拿、封、閉、勾、、采、掛などの武術としての手法を編出し、北派螳螂拳の風格を作り出した。

北派螳螂拳は早い時期から山東省膠東一帯に広がり、以後徐々に流派が分かれたのだ。主な流派には太極梅花螳螂拳、七星螳螂拳、六合螳螂拳があり、その他にも北派螳螂拳をベースにその他の拳術を混ぜた螳螂拳もある。

例えば通臂螳螂、馬猴螳螂、手螳螂、鴛鴦螳螂、光板螳螂、八歩螳螂、金踐螳螂、明古螳螂などである。それぞれの風格は、その螳螂拳の体系に大きな影響を与えている。ここで北派太極梅花螳螂拳の主な師承伝人を以下簡単に紹介する。

 

 螳螂拳を作り出した王朗の第一代の伝人は趙啓禄である。又の名を趙柄栄と言い、幼名を趙珠という。山東莱陽県趙家人である。彼は勤勉でかつ武術を学び、少年期には文才にあふれており、武術の腕前はずば抜けていた。そして陜西省淳化県の役人として赴任していた。

役人を辞めて故郷に帰った時、螳螂拳を莱陽に伝えたのだ。趙は長年の稽古と工夫の末、その妙技を得た。そして「崩歩」「分身八肘」を基礎に他の拳術の精華を加えて、更に螳螂拳の力の特徴にしたがって「乱截」の一套路を創設した。

このことは螳螂拳の発展にとって大きな貢献となった。趙啓禄は螳螂拳の第一代の伝人である。

 趙啓禄の弟子は李炳霄である。若い頃より医術を学び、その腕は大したもので、人の為に尽くした。ある晩秋、盗賊が住処から離れた場所で病に犯され、たまたま通りかかった李炳霄と遭遇し、看病に尽力した。

それに多いに感激した盗賊は、病が癒えた後も一年程李家に留まり、自らその武技を李炳霄に伝えたのだった。その武術がどのようなものだったのかは、その考証する資料が無い。その時より李炳霄は武門へと足を踏み入れた。

この頃趙啓禄は役人を辞めて故郷に帰っていたので、李はすぐにその門下生となったのだ。趙啓禄はその人格が優れているのを見抜き、心より技を伝授したので、李炳霄は螳螂拳の一大拳士となった。李炳霄は晩年「崩歩」「乱截」「分身八肘」と学んだ武技のポイントを取り出して、六段の「摘要」を作り出した。

以後歴代の拳士は軽々しくこの拳を伝えなかった。李炳霄は螳螂拳の第二代の伝人である。

 李炳霄の弟子の梁学香は山東省海洋県于山村(莱陽県との県境)の人である。彼は幼い頃より李家で働いていた。彼は頭が良く学問好きで、李炳霄が稽古をしているとその傍らで盗み見て拳を練った。ある晩、いつものように盗み見た拳を自分で練習していると李炳霄が現れた。

李はその熱意に感動し、自分の弟子とした。学香は十数年苦労して螳螂拳の修行を行い、大きな進歩を遂げたのだった。当時の武林での名声は高く、陜西「十大刀客」を退けた。 梁学香は三冊の本を著し、螳螂門の発展に大きな貢献を果たした。

螳螂拳の拳理、拳譜は全てその中に現されている。その中の一冊「拳棍槍譜」は咸豊年間に「徳順堂」の名で著わされた。更に一冊の「拳譜」は1853年に書かれている。もう一冊は書かれた年代は不祥であるが、一部に挿し絵が入っている。

この三冊の本は140年前に全て書かれたものであり、螳螂拳の元々の姿と当時完成された姿を現した貴重な資料である。 梁学香先生は「拳譜」の中で3つの套路を整理した。即ち「崩歩」「乱截」「分身八肘」であり、以後歴代の拳士はこの三拳を螳螂門の中心とし、「崩歩走、乱截守、打人看八肘」の説を生んだ。

梁学香先生は後に北京に出て、シルクの店を営んでいた。経済的にも裕福で、その武術の腕は高く、長男の梁井川と共に、当時の武林で「梁家父子」とあだ名された。梁学香先生は螳螂拳の第三代の伝人である。

① 

② 

③ 

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~

 螳螂拳の伝承には様々な説が有り、民間で伝承されてきたため、資料もあまり残されていない。中国から出版されている武術雑誌の中に非常に史実をまじめに考察したと思われる資料が有ったので、是非ここに紹介したいと思い訳を試みた。

中国語は薄学なので、意訳部分が多く、細かい表現では間違いも有ると思うが、大筋は紹介できたと思っている。 拳士の素顔にはなかなか触れることができない。特に我々に最も縁の深い「莱陽三大山」の崔寿山老師の写真が入手できないのは、非常に残念だ。

昔、王元亮師父から螳螂拳は陜西省の拳法で、それを第一代の李炳霄が山東に持ち帰ってきたという話を聞いた。そして陜西省の螳螂拳の真伝が絶えたのだから、山東の螳螂拳も根絶するべきだとして侠客が送られたが、第二代趙珠がそれを迎え撃ち、疲労の為片方の目を病んでしまったとも聞いた。

莱陽県誌には第一代は李炳霄、第二代は趙珠として記録されている。しかし最近の考証ではどうもこれが逆転しているようだ。李炳霄老師が医術を心得ていたというのは共通した事実のようだ。趙家の家系譜はしっかりしたものがあるから、官吏として活躍していた可能性が高いと思う。

従って趙珠老師が官吏として陜西省に赴任していたのなら、新しい考証が正しい事になるのだろう。しかし、いずれにせよ螳螂拳がこの二人先達の苦練工夫の末、第三代、梁学香老師に伝えられたことは間違いない。

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四