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月刊 秘伝 2010年 09月号2

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七長八短とは何か

『螳螂拳の「七長八短」とは何か。』
解答者:孫德(崔壽山再伝弟子、山東省在住)(「中華武術」1988年11月号総第58期、輔導答疑より)

「七長、八短」は螳螂拳の招式中において長短の総目をなしています。これを正確に理解し運用すれば、学んだ技を使う時に長の中に短を含み、短の中に長をかくすことができる様になるのです。

「七長」

一、順歩倩手
逸を以って相手の労を待つ法です。敵が手を出し我を撃つ時、我はその相手の勢を借りこれを撃つのです。すなわち敵が自ら出した手をそのまま我の手としてしまうということです。故に「倩」(他人に我と代わってもらって何かをしてもらうという意味)の字をいうのです。

 二、揺歩入手
  敵の手がきたら、我は身を閃漏させ、前腿を外に擺(ひら)き、後腿を路に中(あた)らせ、前手で護り封じ、後手を前に出し、身をねじり敵を撃つのです。

 三、纏封双掌
  敵が上路もしくは中路を打って来たら、我は両手を相手の手に合わせ纏(まと)いつかせ、つづけて双掌を真っ直ぐ突き出すのです。

 四、迎面通捶
  敵に臨み、自ら出る、もしくは倩をして、両捶を真っ直ぐに通じさせ、前後は相接し、一時にあわせて到るのです。

 五、剿手斫掌
  手臂は牛鞭の旋転に似て、棍を行き纏に走る、起手は剿に似て、落手は[石欠]と為す、 反と正は交互になり、中と外で一斉に挙する。

 六、翻身直入
  これを回馬拳といいます。敵に対し、我は負けているかの様な勢をとり逃げようとし、そしてまた転身し回って取るのです。

 七、韓通通背
  伝わるところによると韓通という人物は北宋の大将であり、彼が強大な力を発するとき、両肘の骨がまるで一本のもののように肩をつらぬき用いられているようであったという、後の人はこれに学び、前を伸ばせば後ろは屈し、側身にし真直ぐ衝(つ)く、という理を発見し、そしてそれを通背といったのです。

「八短」

 一、迎面頭捶
  頭捶は側方に用いるのが最もよく、もし何人もの人間に囲まれてしまったら、相手を掴み引いたり([手へんに秋])、捉えたり(采)、相手に貼り付き(貼)、もたれかかるように(靠)して用います。また真直ぐの方向に用いても勿論よいです。

 二、靠身臀捶
  臀捶もまた側方に用いるのがよいでしょう。おおよそこれは多くの場合において身を近づけてから、もたれるように打ちます。これがすなわち門に貼り付き壁にもたれるという法なのです。

 三、蹲身臂捶
  低い身形で膊(上肢の肩に近い部分もしくは腕全体)を以って敵を取る、この類の手法にはすべて粘拿が内にあります。

 四、粘拿胸捶
  これを使う時は肩を提し胸をはる(挺)、相手に身を近づけていなければ効を奏し難いでしょう。

 五、六、七、八、双肘双膝
  両膝と両肘を合わせて四短と為します。肘を用いるのは遠近ともに使いよいですが、膝を起こすのはすなわち身をもたれさせるようにすれば用いることができるでしょう。こういったことから、拳諺には「靠身は長を助け短に変ず」という説がある のです。

 

<私見>
  七長八短はなぜ、この七つと八つのそれぞれに分けられたのか。長短というものに対する螳螂門の感性、実際の動作にどのように長短と感じているのか。それを解く手がかりになるのかもしれません。また内容で言えば七長の四、五の中に疑問が残りました。

まず四、迎面通捶。この通捶が自分による連打をさしているのか、それともクロスカウンターをさしているのか、判別しきれませんでした。文面では両方の意味で取れますが、クロスカウンターの意味のほうが拳理としても深そうですね。

それから五、剿手斫掌(伝承によっては[石欠]掌)。牛鞭というものの具体的姿が浮かびませんでした。牛鞭は牛の身体の一部(尾でしょうか)をさしているのか、それとも牛追いの鞭を指すのか、これも判別できませんでした。

行棍走纏という言葉も、棍のように行き纏わりつく、と訳しても、やはり両方とも意味が通りそうです。個人的には尾よりも牛追い鞭を考えています。すなわちよく撓(しな)る棒ではないか、と。これなら螳螂拳の手臂のイメージに合いそうです。

それから剿という言葉も気になります。新華字典では剿は討伐の意となっていました。文中では剿と[石欠]を対照させているわけですので、 意味にも何らかの対照性があるはずなのですが、果たして何なのか。まさか討伐と処刑([石欠] 頭)の二つでしょうか。これはまだ謎です。

螳螂拳源流考 其の四

第三の流れは赫連玉の子赫恒路が伝えたものであり、彼は山東省煙台の人であった。 家伝の螳螂拳を受け継ぎ、螳螂拳を細部にわたって修めた人である。ハルピンに来た時には大きな車輪加工場を経営しており、その拳を多くの人に伝えた。現在のハルピン一帯に伝わる「太極梅花螳螂拳」はほとんど赫家の伝承である

赫恒路は後に北京へ出て、その拳を教授した。槍の技術に習熟していたためその名声は高く、「神槍赫」と呼ばれた。後に煙台に立ち寄った時に赫斌老師に拳芸を授け、赫老師は煙台と南方に大きな影響を与えた。

これが第三の螳螂拳の流れである。

 以上述べたように、黄永凱、宋子徳、顔学信、袁子、赫恒路は螳螂拳の第五代の伝人である。

 林世欽、于世遠、紀忠徳、紀春亭、崔寿山、李坤山、王玉山、金立徳、赫斌は螳螂拳の第六代の伝人である。

 第七代の伝人についてここで簡単に紹介する。

 崔寿山の弟子の曲伸は長春市の人である。何度も長春において螳螂拳の螳螂拳の教授を行い、その徳と技は共に高く、1984年で60歳になる。

 林世欽の弟子の李英奇は山東省煙台の人である。「武林」雑誌にその文章などを発表し、螳螂拳と「十八羅漢拳」への見識は大変深い。1984年で52歳になる。

 李坤山の弟子の張炳斗は山東省青島の人である。文武共にその才能はずば抜けており、「王朗伝奇」を著わし、またテレビの連続ドラマ「武松」の殺陣を考え出した。また85年から全国を対象に「太極梅花螳螂拳」の通信教育を開講した。こうした発展推進の試みは大きな貢献である。

 于世遠の弟子の于景元は四平市の人である。師について十数年、螳螂拳と十八羅漢拳を苦行し省と全国武術交流大会に参加した。于景元老師は多くの弟子の中でも代表的な人物であり、今年46歳である。

 金立徳の弟子の金衛東は遼寧省丹東市の人である。家伝を受け継ぎ83年には遼寧省武術表演会に参加した。(営口市にて開催)彼の演じた「太極梅花螳螂摘要」は優秀賞を獲得した。

 以上が北派螳螂拳の系譜であり、梅花螳螂流派の主立った源流と伝承である。但し、螳螂拳は長年にわたる錬拳と伝承、及び多くの弟子によって受け継がれたために、知られていない事柄も多岐にわたる。もし上述の事柄に不備が有れば、各方面の状況にしたがって補完を託し、螳螂門の発展を願う。王朗祖師から数えると、梅花螳螂拳は既に第八代となるのだ

③ 


以上が「螳螂拳源流考」の大意である。 私は個人的に資料として以下を追記したい思う。

第六代、王玉山の教授した学生青島、莱陽を中心に数多くいたが、その真伝は、四人いた息子の中で、武の才能を見出した次男の王元亮と四男の王元乾に受け継がれた。特に王元亮は非凡な才能と苦練の末、父の拳芸の全てを受け継いだ。

1926年に山東省莱陽県崔③で生まれた。王玉山の晩年には、父に代わって莱陽、青島、蓬莱などで拳芸を同様に教授した。日本人にも初めて王家螳螂拳の門戸を開き、その技術を真摯に伝えて下さる。現代の螳螂拳の国際的な発展に大きく貢献活躍されているのである。 王元亮師父は第七代の伝人である

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四

螳螂拳源流考 其の三

第二の流れは姜化龍が山東省莱陽県趙各庄の人である宋子徳の伝承である。宋子徳は姜化龍と義兄弟であり、同年齢であった。但し宋家は裕福であり、また彼は博学で書を収め、大変螳螂拳を愛した。だから兄として師として姜に従い、懸命に拳芸を収めた。

姜化龍の拳譜と理論の資料は全て彼が執筆したものだ。 姜化龍の弟子顔学信は山東省莱陽県の人である。彼は姜が62歳の時の関門弟子である。顔学信は当時まだ12歳であったが、現在では太極梅花螳螂門の中では最高輩の一人であり、1984年で83歳だ。

姜化龍の弟子袁子は山東省長山島の人である。師から学ぶこと数年。功がなった後安東にて拳を教授し、その地で大変有名になった。 宋子徳の弟子紀春亭は山東省煙台の人であり、著名武術家の一人である。螳螂拳を非常に愛し、本門であった武芸を捨てる決意を固め、宋子徳の教えを受けた。

昔の技芸が高かったため、六ヶ月ほど苦学したのち、螳螂拳の名家となった。後に奉天の試合に出場した際、螳螂拳の「滾幇肘」の技に熟達しており相手を破り、優勝した。後に彼を銃で暗殺しようとする者が現れ、やむを得ず煙台に戻り拳を教えた。 宋子徳の弟子崔明年は、またの名を寿山といい、山東省莱陽県諸陸の人である。

李坤山は莱陽県由各庄の人である。そして王玉山は山東省莱陽県崔③の人である。この三人は姜化龍と宋子徳が同じ場所で教えていた時の弟子であり、姜老師の自らの指導を得て、その功夫はなみなみならぬものがあり、莱陽三大山」と呼ばれた。

崔寿山は姜師の拳譜と理論をもとに資料を整理し、上下二冊の本を作った。崔老師は大連市で拳を教授し、晩年には山東の故郷へ帰ったが、九十歳の時一度大連に来られて、後山東の故郷で亡くなった。

李坤山は槍が得意だった。螳螂拳の技を槍の技術に応用し、その「鳳凰三点頭」「底漏槍」等の技は、まさに神出鬼没であった。1933年南京で行われた試合では、大槍で優勝し、金盾と金字で「一支干戈震東洋、半世英雄傳天下」書かれた額を受け取った。

王玉山もこの試合に参加した。彼の鉄拳は爆雨の如き激しさであり、「一肘遮半身」「翻車捶」「轆轤捶」等の技は相手が受けることのできないものであった。大きな勝利を得た。「莱陽三大山」の武林での名は高く響き、膠東一帯では多くの人に芸を教授した。

袁子の弟子の金立徳は丹東市の人である。師から長年の教えを受け、その技芸は驚くべきものがある。 丹東において風城などの地でその技芸を教授し、大きな影響を与えた。 崔寿山の弟子の曲伸は長春市の人である。大連にて崔寿山の教えを受け、崔師の拳譜とその他の資料を持っている。

現在長春市において拳芸を教授しており、1984年で60歳になる。 崔寿山の弟子の劉忠凱は大連市の人である。早い時期から師の元で拳芸の鍛練をつみ、大連でその拳を教授した。その技芸は大変奥が深く、1984年で83歳になる。紀春亭の弟子の趙幇祥は大連市の人である。彼は紀老師が伝えた拳譜とその他の資料を持っている。

「文化大革命」の際、彼の弟子達はその原本を焼失してしまったが、その写し本は密かに守られた。この武芸に対する献身的な精神は多くの人から尊敬されている。1984年で83歳になる。 以上が螳螂拳第二の流れである。

③ 

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四