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漫談拳術

張詳三著~七星螳螂拳より

人間の力は、腕・腰・脚に分けることが出来る。これらを合わせる事が体力であり、体力の中では、脚の力が最も重要である。だから拳を練る者にとっては、先ず站歩を行なうのであり、脚の力をつけることが、各流派で昔から継続して行なわれているのである。

歩の種類は甚だ多く、おおよそ弓歩、馬歩、丁字歩、八字歩、長山歩、金鶏歩、跟歩、流水歩、前提後??歩、跳歩、玉環歩、滑歩等種類があり、書き尽くすことは難しい。但し、弓歩、馬歩は基本の歩法であり、弓馬歩は站歩を行なうには適しており、脚の力をつけ、挙鼎劈山の力を生むのである。

腰の力は全身を支え、腕の力は振り打つ力を発揮することを可能にし、各種の歩法は身形に従って変化し、弓、馬歩に合致し、跟歩?歩は前に進むことに適しており、?跳は追随することに用いる。滑歩は進退閃転に用い、中門を守る余裕を持つ。

歩の種類は多いといえども、芸が成った後では一般で言う、「丁に非ず、八に非ず、弓に非ず、馬に非ず、どんな勁にも従い、どのようにも発する」このように、心の欲するところに従って到達できてはじめて、大乗というのである。

七星蟷螂拳は玉環歩を主とし、六合蟷螂拳は前提後?歩と滑歩を用いる。前提後拖歩は、歩を進めて相手に迫り、滑歩は風に従うように揺れ動く。力を流し去り、前に進むこと一丈、後ろへ下がること八尺、唆を穿つ如く進み、左閃右転、騰?を自在に行い、軽きこと猿の如し。

これが蟷螂拳猿猴歩と言われる。(中略) また、恰錘がある。(あたかも錘の如くという意味)これは江湖が拳芸を見せるときに用いるもので、二人で打ち合うときに、指の弾力を用いて皮膚に触れるとき、ピンピンと音がするため観衆を喜ばせるのである。

或いは交流試合の時など、点で当て止めるので、怪我を防ぐことが出来る。 拳術の道は、自衛強身を以って、暴力を除き、民を按ずる事が本来の目的である。自衛の時は、必ず相手の強弱を見て、攻撃の軽重を決める。懲らしめる時は過去の過ちを戒めるために打つ部位には傷が残らないようにするべきである。

生死にかかわる様な者を相手とし、心の中に少しも手加減する気持ちがないようなときは、禁じての場所を打っても良い。すなわち、禁じての場所を打つときは、相手の殺意がある時である。人間のツボは全身に遍く存在し、死に至るもの、気絶する場所は時間に従って、正確に打つべきであるが、力がなければ深部に到達しない。

分筋絶脈点穴の名人はたくさんいるが、用いるときは、細かに点在するツボではなく、数箇所の重要な箇所に特定している。人体には72箇所の重要なツボがあり、それぞれの時間や特色に従うことは実際には用意ではない。その一部分を打っても、面積は広く有効とはなり難い。心して練習し、努力すれば成果は得ることが出来る。

八箇所の打つべき場所と打ってはならない場所(八打八不打)を、後学の参考に簡単に紹介する。

八打

眉頭双睛
打曲池双臂
打鼻下人中
打撩陰高骨
打穿腮耳門
打鶴膝虎脛
打背後骨縫
打破骨千斤

八不打

不打太陽為首
不打対睛鎖口
不打中心両壁
不打両脋肺腑
不打海底撩陰
不打尾閭鳳府
不打両腰腰腎
不打両耳扇風

交手歌

手招架総嫌遅
閃賺騰挪法神奇
閃非空閃閃即打
打非真打分虚実
虚虚実実難招架
莫把虚来当作実
陰陽転換勿遅疑
出手必須佔先機
我不打人人打我
聚精会神莫大意

交手十忌

気浮力暴
忌立足不穏
忌身躯不霊
忌出手猶豫
忌欺敵怯敵
忌当打不打
忌神不集中
忌力不従心
忌拳不連発

 

翻車轆轆捶法

 『翻車轆轆捶法』
著者:黄漢勲先師(七星螳螂拳、羅光玉の弟子、香港) (「螳螂拳闡秘」、同名文章を抜粋)  

羅(光玉)師はかつて、こうおっしゃいました。翻車は速く而して蟷螂は密なり、翻車は遠いが螳螂翻車は近い、と。螳螂翻車、これはその運用において動作が連繋することが実際として大変重要なのです。そしてそれこそが翻車の重要な法門なのです。

(螳螂門では)四面を敵に囲まれ、その包囲から抜け出すのが困難になったとき、必ず翻車の手法をもって包囲の線を衝き、これを破らなければなりません。その後、螳螂の手を翻車と互いに合わせ用いれば、すなわち功はその場にあらわれてくるでしょう。

しかし、いったい翻車の法とは何をさしているのでしょうか?それを説明しないわけにはいかないでしょう。翻車の法、それは先に両手で拳をつくり、両手を左右に分け、上から下に劈をし、下に来たら上に反対に返り、既に上があれば下を削ることを言います、そしてその動きの纏繞は一時でもとどまらせてはなりません。

手を発したら対方がどのよう姿であろうとかまわず、全身で目標に向かって猛進し、ついには深くにわけ入り、はじめて止まるのです。この種の手法を使用する時はその場において、必ず先に自分にこの手を長く維持するだけの気と力があるのか観察しなければなりません。

また翻車の手法だけに頼って敵を撃とうとしてはいけません、これは相手への突入において利用するものなのです。翻車の手法を用いたら、すぐに泰山圧頂や迎面直統、黒虎偸心などの手法を続けて施すのです。もしそれらが無効であったなら、必ずや瞬時に判断を下し、その場で柔手に改めるか、左右に閃歩し、敵がどのように我の法を制しえたのかよくよく観察し、そしてそれから再び相手を撃ちに行くのです。

もし相手が、我が少しだけ退いたのにあわせて我に進み迫り、我に息をつかせるだけの機会を与えなかったとしたら、それはすなわち、そのとき我は相手に制御される被動(動かされている)のポジションに陥ってしまったと言うことなので気をつけなければいけません。

このような状況下では我はいつでも相手に打ち倒されるであろう可能性があります、すなわち非常に危険な境にいるのです。 戦争の道、それは時時に応じて相手と主動を争い取ることこそが勝ちを決める条件になることに他なりません。そしてそこでは、たとえすでに主動をとっていたとしてもすぐにでも被動へと容易にかわってしまうことがあります。

すなわち我がしばらくの間主動をとっていたとしても、もし敵に再び先を占められてしまったら、我が絶対に負けないということはありえないことなのです。故にそれこそが生死存亡の境目なのです、これをみても先に手を下したものが強いと言うことは認めないわけには行きません。

翻車の手を瞬時に変化させ轆轆捶となす、左右を定めず、あるいは左が進むをもって右を退き、もしくは右で入れば左が出る、そのとき必ず身体は半身(偏身)にし、架式は低く(低馬)とらなければなりません。そして相手の一手が力を失う(過頭)、まさにその瞬間に相手の圏内に進むのです。

手と歩は共に同じく一致させ、目的を達することに務め、それによって止まるのです。もし対方が方向を改め移してきたら、すなわち我もまた左右跨歩の法を用いて、相手の側方からこれを打つのです。以上のことは、(螳螂)拳を学ぶ者にとって知らないというわけにはいかないことなのです。

 

注) 全体的にかなりの部分を意訳しています。また本文中理解しにくいであろう部分には勝手に言葉を付け加えました。もしさらに良い訳がありましたら、随時訂正をしてください。筆者は有名な七星螳螂拳師の故黄漢勲氏です。黄氏は羅光玉の南方における弟子の一人です。

黄漢勲氏は七星螳螂拳に関する書を三十種類余り著しています。現在ではもとの版権を持っていた出版社の倒産により、いまや手に入れられるのは十種類余りになってしまっているようです。

轆轆と轆轤は同音異字です、同じものを指しています(但し轆轤は物、轆轆はその轆轤の動きを表現)。内容について皆さんに御批判、感想等をいただけたら幸いです。

 

七長八短とは何か

『螳螂拳の「七長八短」とは何か。』
解答者:孫德(崔壽山再伝弟子、山東省在住)(「中華武術」1988年11月号総第58期、輔導答疑より)

「七長、八短」は螳螂拳の招式中において長短の総目をなしています。これを正確に理解し運用すれば、学んだ技を使う時に長の中に短を含み、短の中に長をかくすことができる様になるのです。

「七長」

一、順歩倩手
逸を以って相手の労を待つ法です。敵が手を出し我を撃つ時、我はその相手の勢を借りこれを撃つのです。すなわち敵が自ら出した手をそのまま我の手としてしまうということです。故に「倩」(他人に我と代わってもらって何かをしてもらうという意味)の字をいうのです。

 二、揺歩入手
  敵の手がきたら、我は身を閃漏させ、前腿を外に擺(ひら)き、後腿を路に中(あた)らせ、前手で護り封じ、後手を前に出し、身をねじり敵を撃つのです。

 三、纏封双掌
  敵が上路もしくは中路を打って来たら、我は両手を相手の手に合わせ纏(まと)いつかせ、つづけて双掌を真っ直ぐ突き出すのです。

 四、迎面通捶
  敵に臨み、自ら出る、もしくは倩をして、両捶を真っ直ぐに通じさせ、前後は相接し、一時にあわせて到るのです。

 五、剿手斫掌
  手臂は牛鞭の旋転に似て、棍を行き纏に走る、起手は剿に似て、落手は[石欠]と為す、 反と正は交互になり、中と外で一斉に挙する。

 六、翻身直入
  これを回馬拳といいます。敵に対し、我は負けているかの様な勢をとり逃げようとし、そしてまた転身し回って取るのです。

 七、韓通通背
  伝わるところによると韓通という人物は北宋の大将であり、彼が強大な力を発するとき、両肘の骨がまるで一本のもののように肩をつらぬき用いられているようであったという、後の人はこれに学び、前を伸ばせば後ろは屈し、側身にし真直ぐ衝(つ)く、という理を発見し、そしてそれを通背といったのです。

「八短」

 一、迎面頭捶
  頭捶は側方に用いるのが最もよく、もし何人もの人間に囲まれてしまったら、相手を掴み引いたり([手へんに秋])、捉えたり(采)、相手に貼り付き(貼)、もたれかかるように(靠)して用います。また真直ぐの方向に用いても勿論よいです。

 二、靠身臀捶
  臀捶もまた側方に用いるのがよいでしょう。おおよそこれは多くの場合において身を近づけてから、もたれるように打ちます。これがすなわち門に貼り付き壁にもたれるという法なのです。

 三、蹲身臂捶
  低い身形で膊(上肢の肩に近い部分もしくは腕全体)を以って敵を取る、この類の手法にはすべて粘拿が内にあります。

 四、粘拿胸捶
  これを使う時は肩を提し胸をはる(挺)、相手に身を近づけていなければ効を奏し難いでしょう。

 五、六、七、八、双肘双膝
  両膝と両肘を合わせて四短と為します。肘を用いるのは遠近ともに使いよいですが、膝を起こすのはすなわち身をもたれさせるようにすれば用いることができるでしょう。こういったことから、拳諺には「靠身は長を助け短に変ず」という説がある のです。

 

<私見>
  七長八短はなぜ、この七つと八つのそれぞれに分けられたのか。長短というものに対する螳螂門の感性、実際の動作にどのように長短と感じているのか。それを解く手がかりになるのかもしれません。また内容で言えば七長の四、五の中に疑問が残りました。

まず四、迎面通捶。この通捶が自分による連打をさしているのか、それともクロスカウンターをさしているのか、判別しきれませんでした。文面では両方の意味で取れますが、クロスカウンターの意味のほうが拳理としても深そうですね。

それから五、剿手斫掌(伝承によっては[石欠]掌)。牛鞭というものの具体的姿が浮かびませんでした。牛鞭は牛の身体の一部(尾でしょうか)をさしているのか、それとも牛追いの鞭を指すのか、これも判別できませんでした。

行棍走纏という言葉も、棍のように行き纏わりつく、と訳しても、やはり両方とも意味が通りそうです。個人的には尾よりも牛追い鞭を考えています。すなわちよく撓(しな)る棒ではないか、と。これなら螳螂拳の手臂のイメージに合いそうです。

それから剿という言葉も気になります。新華字典では剿は討伐の意となっていました。文中では剿と[石欠]を対照させているわけですので、 意味にも何らかの対照性があるはずなのですが、果たして何なのか。まさか討伐と処刑([石欠] 頭)の二つでしょうか。これはまだ謎です。