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翻車轆轆捶法

 『翻車轆轆捶法』
著者:黄漢勲先師(七星螳螂拳、羅光玉の弟子、香港) (「螳螂拳闡秘」、同名文章を抜粋)  

羅(光玉)師はかつて、こうおっしゃいました。翻車は速く而して蟷螂は密なり、翻車は遠いが螳螂翻車は近い、と。螳螂翻車、これはその運用において動作が連繋することが実際として大変重要なのです。そしてそれこそが翻車の重要な法門なのです。

(螳螂門では)四面を敵に囲まれ、その包囲から抜け出すのが困難になったとき、必ず翻車の手法をもって包囲の線を衝き、これを破らなければなりません。その後、螳螂の手を翻車と互いに合わせ用いれば、すなわち功はその場にあらわれてくるでしょう。

しかし、いったい翻車の法とは何をさしているのでしょうか?それを説明しないわけにはいかないでしょう。翻車の法、それは先に両手で拳をつくり、両手を左右に分け、上から下に劈をし、下に来たら上に反対に返り、既に上があれば下を削ることを言います、そしてその動きの纏繞は一時でもとどまらせてはなりません。

手を発したら対方がどのよう姿であろうとかまわず、全身で目標に向かって猛進し、ついには深くにわけ入り、はじめて止まるのです。この種の手法を使用する時はその場において、必ず先に自分にこの手を長く維持するだけの気と力があるのか観察しなければなりません。

また翻車の手法だけに頼って敵を撃とうとしてはいけません、これは相手への突入において利用するものなのです。翻車の手法を用いたら、すぐに泰山圧頂や迎面直統、黒虎偸心などの手法を続けて施すのです。もしそれらが無効であったなら、必ずや瞬時に判断を下し、その場で柔手に改めるか、左右に閃歩し、敵がどのように我の法を制しえたのかよくよく観察し、そしてそれから再び相手を撃ちに行くのです。

もし相手が、我が少しだけ退いたのにあわせて我に進み迫り、我に息をつかせるだけの機会を与えなかったとしたら、それはすなわち、そのとき我は相手に制御される被動(動かされている)のポジションに陥ってしまったと言うことなので気をつけなければいけません。

このような状況下では我はいつでも相手に打ち倒されるであろう可能性があります、すなわち非常に危険な境にいるのです。 戦争の道、それは時時に応じて相手と主動を争い取ることこそが勝ちを決める条件になることに他なりません。そしてそこでは、たとえすでに主動をとっていたとしてもすぐにでも被動へと容易にかわってしまうことがあります。

すなわち我がしばらくの間主動をとっていたとしても、もし敵に再び先を占められてしまったら、我が絶対に負けないということはありえないことなのです。故にそれこそが生死存亡の境目なのです、これをみても先に手を下したものが強いと言うことは認めないわけには行きません。

翻車の手を瞬時に変化させ轆轆捶となす、左右を定めず、あるいは左が進むをもって右を退き、もしくは右で入れば左が出る、そのとき必ず身体は半身(偏身)にし、架式は低く(低馬)とらなければなりません。そして相手の一手が力を失う(過頭)、まさにその瞬間に相手の圏内に進むのです。

手と歩は共に同じく一致させ、目的を達することに務め、それによって止まるのです。もし対方が方向を改め移してきたら、すなわち我もまた左右跨歩の法を用いて、相手の側方からこれを打つのです。以上のことは、(螳螂)拳を学ぶ者にとって知らないというわけにはいかないことなのです。

 

注) 全体的にかなりの部分を意訳しています。また本文中理解しにくいであろう部分には勝手に言葉を付け加えました。もしさらに良い訳がありましたら、随時訂正をしてください。筆者は有名な七星螳螂拳師の故黄漢勲氏です。黄氏は羅光玉の南方における弟子の一人です。

黄漢勲氏は七星螳螂拳に関する書を三十種類余り著しています。現在ではもとの版権を持っていた出版社の倒産により、いまや手に入れられるのは十種類余りになってしまっているようです。

轆轆と轆轤は同音異字です、同じものを指しています(但し轆轤は物、轆轆はその轆轤の動きを表現)。内容について皆さんに御批判、感想等をいただけたら幸いです。

 

七長八短とは何か

『螳螂拳の「七長八短」とは何か。』
解答者:孫德(崔壽山再伝弟子、山東省在住)(「中華武術」1988年11月号総第58期、輔導答疑より)

「七長、八短」は螳螂拳の招式中において長短の総目をなしています。これを正確に理解し運用すれば、学んだ技を使う時に長の中に短を含み、短の中に長をかくすことができる様になるのです。

「七長」

一、順歩倩手
逸を以って相手の労を待つ法です。敵が手を出し我を撃つ時、我はその相手の勢を借りこれを撃つのです。すなわち敵が自ら出した手をそのまま我の手としてしまうということです。故に「倩」(他人に我と代わってもらって何かをしてもらうという意味)の字をいうのです。

 二、揺歩入手
  敵の手がきたら、我は身を閃漏させ、前腿を外に擺(ひら)き、後腿を路に中(あた)らせ、前手で護り封じ、後手を前に出し、身をねじり敵を撃つのです。

 三、纏封双掌
  敵が上路もしくは中路を打って来たら、我は両手を相手の手に合わせ纏(まと)いつかせ、つづけて双掌を真っ直ぐ突き出すのです。

 四、迎面通捶
  敵に臨み、自ら出る、もしくは倩をして、両捶を真っ直ぐに通じさせ、前後は相接し、一時にあわせて到るのです。

 五、剿手斫掌
  手臂は牛鞭の旋転に似て、棍を行き纏に走る、起手は剿に似て、落手は[石欠]と為す、 反と正は交互になり、中と外で一斉に挙する。

 六、翻身直入
  これを回馬拳といいます。敵に対し、我は負けているかの様な勢をとり逃げようとし、そしてまた転身し回って取るのです。

 七、韓通通背
  伝わるところによると韓通という人物は北宋の大将であり、彼が強大な力を発するとき、両肘の骨がまるで一本のもののように肩をつらぬき用いられているようであったという、後の人はこれに学び、前を伸ばせば後ろは屈し、側身にし真直ぐ衝(つ)く、という理を発見し、そしてそれを通背といったのです。

「八短」

 一、迎面頭捶
  頭捶は側方に用いるのが最もよく、もし何人もの人間に囲まれてしまったら、相手を掴み引いたり([手へんに秋])、捉えたり(采)、相手に貼り付き(貼)、もたれかかるように(靠)して用います。また真直ぐの方向に用いても勿論よいです。

 二、靠身臀捶
  臀捶もまた側方に用いるのがよいでしょう。おおよそこれは多くの場合において身を近づけてから、もたれるように打ちます。これがすなわち門に貼り付き壁にもたれるという法なのです。

 三、蹲身臂捶
  低い身形で膊(上肢の肩に近い部分もしくは腕全体)を以って敵を取る、この類の手法にはすべて粘拿が内にあります。

 四、粘拿胸捶
  これを使う時は肩を提し胸をはる(挺)、相手に身を近づけていなければ効を奏し難いでしょう。

 五、六、七、八、双肘双膝
  両膝と両肘を合わせて四短と為します。肘を用いるのは遠近ともに使いよいですが、膝を起こすのはすなわち身をもたれさせるようにすれば用いることができるでしょう。こういったことから、拳諺には「靠身は長を助け短に変ず」という説がある のです。

 

<私見>
  七長八短はなぜ、この七つと八つのそれぞれに分けられたのか。長短というものに対する螳螂門の感性、実際の動作にどのように長短と感じているのか。それを解く手がかりになるのかもしれません。また内容で言えば七長の四、五の中に疑問が残りました。

まず四、迎面通捶。この通捶が自分による連打をさしているのか、それともクロスカウンターをさしているのか、判別しきれませんでした。文面では両方の意味で取れますが、クロスカウンターの意味のほうが拳理としても深そうですね。

それから五、剿手斫掌(伝承によっては[石欠]掌)。牛鞭というものの具体的姿が浮かびませんでした。牛鞭は牛の身体の一部(尾でしょうか)をさしているのか、それとも牛追いの鞭を指すのか、これも判別できませんでした。

行棍走纏という言葉も、棍のように行き纏わりつく、と訳しても、やはり両方とも意味が通りそうです。個人的には尾よりも牛追い鞭を考えています。すなわちよく撓(しな)る棒ではないか、と。これなら螳螂拳の手臂のイメージに合いそうです。

それから剿という言葉も気になります。新華字典では剿は討伐の意となっていました。文中では剿と[石欠]を対照させているわけですので、 意味にも何らかの対照性があるはずなのですが、果たして何なのか。まさか討伐と処刑([石欠] 頭)の二つでしょうか。これはまだ謎です。

螳螂拳源流考 其の四

第三の流れは赫連玉の子赫恒路が伝えたものであり、彼は山東省煙台の人であった。 家伝の螳螂拳を受け継ぎ、螳螂拳を細部にわたって修めた人である。ハルピンに来た時には大きな車輪加工場を経営しており、その拳を多くの人に伝えた。現在のハルピン一帯に伝わる「太極梅花螳螂拳」はほとんど赫家の伝承である

赫恒路は後に北京へ出て、その拳を教授した。槍の技術に習熟していたためその名声は高く、「神槍赫」と呼ばれた。後に煙台に立ち寄った時に赫斌老師に拳芸を授け、赫老師は煙台と南方に大きな影響を与えた。

これが第三の螳螂拳の流れである。

 以上述べたように、黄永凱、宋子徳、顔学信、袁子、赫恒路は螳螂拳の第五代の伝人である。

 林世欽、于世遠、紀忠徳、紀春亭、崔寿山、李坤山、王玉山、金立徳、赫斌は螳螂拳の第六代の伝人である。

 第七代の伝人についてここで簡単に紹介する。

 崔寿山の弟子の曲伸は長春市の人である。何度も長春において螳螂拳の螳螂拳の教授を行い、その徳と技は共に高く、1984年で60歳になる。

 林世欽の弟子の李英奇は山東省煙台の人である。「武林」雑誌にその文章などを発表し、螳螂拳と「十八羅漢拳」への見識は大変深い。1984年で52歳になる。

 李坤山の弟子の張炳斗は山東省青島の人である。文武共にその才能はずば抜けており、「王朗伝奇」を著わし、またテレビの連続ドラマ「武松」の殺陣を考え出した。また85年から全国を対象に「太極梅花螳螂拳」の通信教育を開講した。こうした発展推進の試みは大きな貢献である。

 于世遠の弟子の于景元は四平市の人である。師について十数年、螳螂拳と十八羅漢拳を苦行し省と全国武術交流大会に参加した。于景元老師は多くの弟子の中でも代表的な人物であり、今年46歳である。

 金立徳の弟子の金衛東は遼寧省丹東市の人である。家伝を受け継ぎ83年には遼寧省武術表演会に参加した。(営口市にて開催)彼の演じた「太極梅花螳螂摘要」は優秀賞を獲得した。

 以上が北派螳螂拳の系譜であり、梅花螳螂流派の主立った源流と伝承である。但し、螳螂拳は長年にわたる錬拳と伝承、及び多くの弟子によって受け継がれたために、知られていない事柄も多岐にわたる。もし上述の事柄に不備が有れば、各方面の状況にしたがって補完を託し、螳螂門の発展を願う。王朗祖師から数えると、梅花螳螂拳は既に第八代となるのだ

③ 


以上が「螳螂拳源流考」の大意である。 私は個人的に資料として以下を追記したい思う。

第六代、王玉山の教授した学生青島、莱陽を中心に数多くいたが、その真伝は、四人いた息子の中で、武の才能を見出した次男の王元亮と四男の王元乾に受け継がれた。特に王元亮は非凡な才能と苦練の末、父の拳芸の全てを受け継いだ。

1926年に山東省莱陽県崔③で生まれた。王玉山の晩年には、父に代わって莱陽、青島、蓬莱などで拳芸を同様に教授した。日本人にも初めて王家螳螂拳の門戸を開き、その技術を真摯に伝えて下さる。現代の螳螂拳の国際的な発展に大きく貢献活躍されているのである。 王元亮師父は第七代の伝人である

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四