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2001年合宿レポート

 海沿いの路を抜けると、そこに現れるのは急な山道である。無論アスファルトによる舗装などされていない。登っても登っても目的地にはなかなか到達せず、呼吸ばかりが荒くなる。足の筋肉は早くも張り始め、殆ど「ファイトぉ~いっぱあ~つ!」の世界。そんな豊かな自然で日常から断絶された世界が、今年度の合宿の舞台となった。
場所は伊豆・下田。季節はそろそろ冬の寒さが忍び寄ってくる11月下旬の3連休。しかし幸い、3日間とも温暖な好天に恵まれ、「皆さんの日頃の行いがよろしいんでしょうねえ」などという宿のオバチャンのお世辞だか皮肉だかよくわからない言葉を背に、参加者たちは一路体育館へ向かう。
そして突然現れたこの「ウォーミングアップにはちょうどいい」(宿のオバチャン・談)山道に面食らうという事態に遭遇したのである。某会員が「トトロに会えそう……」と形容したこの山道は、当然ながら三日間の間、我々参加者を練習以上に疲れさせてくれたのは紛れもない事実である。そして「この路を毎日辿っていればいい練習になるよね。俺、来年もここがいいと思うなあ」などとうそぶいていた奇特な会員が若干名いたことも忘れる事は出来ない。勘弁してくださいよ……。

 さて、今回の合宿のメインは「蟷螂拳対練」である。当会きっての精鋭である市川分会・青砥満、名古屋分会・大野徹両氏が、はるばる中国まで赴いて、作者である王秀遠先生から直々に伝授されてきたものであり、せっかく中国まで出向いて学んできたのだから他の会員たちにも伝えてもらいたいと言う、根本先生をはじめとする熱心な会員たちの強い要望によって、ここで晴れて指導されることが実現した。ということはつまり、日本初上陸であろう。それだけに会員たちの期待は高く、たった今済ませたばかり筈のウォーミングアップにも熱が入る。
  頃合いを見て、青砥・大野両氏が進み出る。
「対練ですので、皆さん二人組みを作り、どちらがどちらのパートをやるか決めてください。……よろしいですか?では見本を見せますので、取りあえずそれを真似て形を覚えてください。各技の用法や質問の受付などの細かい指導はその後にします」
起式を取る青砥・大野両氏。一斉に真似る参加者たち。どの瞳も真剣に、食い入るように二人を見詰めている。何度か見本を繰り返して真似た後、各ペアごとに自分たちで練習し、その間を青砥・大野両氏が回って、個人ごとに指導をして回る。形だけでもさっさと覚えてしまったものは、隣のペアと人を取り替えたり、お互いの役割を交代したり、或いは套路の中で気になる動きをピックアップして各自研究してみたりなど、指導者のふたりが回ってくるまでの間も自由研究に余念がない。回ってくるのを待ちきれずに遠くから質問の声をかける者もおり、終始大忙しの両氏であった。蟷螂拳をこよなく愛する会員たちにとって、煩瑣な日常を忘れて思う存分練習に没頭することの許される、一年にたった一度の貴重な三日間というこの時間。一瞬たりとも無駄にすまいという気迫が、見事に世間から隔離された陸の孤島のようなこの体育館に満ち満ちていた。

 そうかと思えば、練習終了後の夜は当然、宴会になる。一年ぶりに出会う仲間たちとの楽しい交流会だが、お互いの近況などを話しあっていたのが、気づけばいつのまにか武術談義に花が咲いている。つくづく、筋金入りの蟷螂拳士たちである。
一つのことに夢中になればなるほど、時間は速やかに過ぎ去ってしまう。合宿中の限られた時間は、今年も瞬く間に終わってしまった。しかしこの極めて短く感じられる特別な三日間のために、彼らは毎年それぞれの都合をつけて、全国各地からはるばる遠方へ足を伸ばすのだ。ひとえに蟷螂拳を愛するが故に。全国の同じ仲間たちの変わらぬ笑顔とその成長ぶりを目の当たりにしたいがために。そして研究熱心な仲間たちとの交流を通してみずからの蟷螂拳技術や知識、見解を少しでも高めるために。年に一度の合同合宿は、会員一人一人の蟷螂拳にかけるこの熱意によって成り立っているのである。

市川分会 飯塚

螳螂拳散打18法

 

 

◎「中華武林」に表題の内容が記事となっていましたので、今後皆さんの研究材料になればと思い、編集してみました。  内容は以前曲志君老師が発表された套路の応用版の様な気がします。とすれば、赫家の太極梅花螳螂拳のではないでしょうか。

◎練習時は、打撃にとらわれず、換手、漏手などの手の変化に意を置くと共に、受け手との間合い、呼吸、変化などを感じて練習するのがベストです。

慣れてきたら防具を付けて、実際に当ててみると良いと思います。(打つのはダメです)当てるときも、防具着用とは言えども、寸止めのような気持ちで軽く当てるよう心がけてください。こうした対練を繰り返すことで、学んでいる套路の応用や変化が分かってくると思います。

 

 

◎螳螂拳のスピードと連続変化(一手化五手)を勉強しましょう。

◎でも招式名の4文字漢字はやっぱりいいですよね。

 

1. 螳螂出洞
(帯を甲、帯無しを乙として説明します)

1.お互いに対峙して立つ。

2.①乙は左足で猛然と甲の腹または股間を蹴る。 ②甲は右足の膝を緩めて体左にややねじって、右手で乙の蹴り足の足首を引っ掛けるように下へ払う。

3.甲は蹴りを受けながら左足を前へ進めて、左拳を振り出すようにして乙の顔を打つ。.仮に乙が蹴り足下ろし、身を引いて左の突きをよけたら、甲は更に左足を進めて距離を詰め、右拳で乙の腹部を打つ。

4.突きに連続して体を左へ開いて、右横蹴りで乙の顔、胸、のど等を蹴る。

要点
この連続技は、3拳1腿の打法の一つで、現代の試合でも活用される。この連続技の中では、守りから攻撃に移る動きは、手足を緊密に配合し、途切れることなく、相手に攻撃する時間を与えないように心がける。

 

2. 螳螂尋路

1.お互いに対峙して立つ。

2.甲は右足を大きく踏み出し、右螳螂手を掌に変えて乙の眼を突く。仮に乙が滑歩を用いて後ろへ下がり、右の内受けでこれを避けたら、甲は滑歩を用いて距離を詰め、右手を滑らせてそのまま乙の腹を打つ。

3.乙が右足を下げながら、左掌で突きを外に払ったら、甲は左足を一歩前に踏み出しながら左掌背面で乙の顔を打つ。

4.顔を打った後、乙が反撃してこない、または左掌打を避けないようであれば、右足で乙の胸を蹴り込む。

要点
この連続技は、手足を組み合わせた攻撃方法の一つである。散打において、前半2式は虚招で、相手の受けを誘い、その後二つの技で相手が防ぎきれないような攻撃につなげる。ポイントはスピードで、一旦自分が攻撃を始めたら、相手はただ防戦一方になるようにし、少しも反撃の機会を与えてはならない。仮に3、4つの連続攻撃が避けられても、少しも停止することなく、更にスピードを加えた攻撃を行なうのである。

 

3. 螳螂僕食

1.お互いに対峙して立つ。

2.甲は、右足を一歩前に進めながら、激しく乙の顔面を打つ。

3.もし乙が、右外受けでこの突きを受けたら、甲はその腕を取り、自分のほうへ引きながら左足を乙の踵に向けて出しその右足を拘束し、左拳で乙の顔を打つ。

4.乙がその左拳を受けたら、甲は左腕で乙の右腕を下へ制すると同時に、体を振って、右拳を下からアッパー気味に乙の胸に打ち上げる。

5.間をおかず、左拳で乙の胸の中心(?中穴)を打つ。

要点
この技は七星打法である。攻めても守っても相手に受けられたら、すぐに相手の腕を取るように変化して、七星歩で相手の踵を拘束する。拳で相手を打つときは、腕を震わせて短く打つ。この抖弾勁は、螳螂拳の大きな特徴である。相手が打ち負かされるまで、拳を連続して出すのである。

 

4.螳螂登枝

1.お互いに対峙して立つ。

2.右足を大きく進めながら、右拳で乙の腹部を打つ。

3.もし乙が足を引いて、右手で甲の右拳を下に払ったら、甲は左足で乙の腹部を蹴る。

4.乙が体を縮めてこれを避けたら、甲は蹴り足を下ろしながら、左掌根で乙の頭部を振り打つ。

5.動作を停止せず、素早く右足を進めて左に体をまわしながら、左盤肘で乙のあごの付け根、または顔を打つ。

要点
この技の動作は一気呵成に連関させなければならない。突き、蹴り、掌打、盤肘を緊密に連関させながら、その間に圏錘や挿錘を加えることで、相手を撹乱することが出来る。全力で上下、左右の攻撃を組み合わせるのは、螳螂拳の最も重要な「攻撃は単発で終わらせない(手不単行)」ことであり、いわゆる機関銃のように、一度拳を発したら4、5発の組み合わせとさせるのである。

 

5.螳螂?打

1.お互いに対峙して立つ。

2.甲は、前足を滑歩で進めて乙との距離を詰め、右鎖口錘で乙の顔を打つ。

3.もし乙がこれを右の内受けで避けたら、すぐに左掌を胸前から振り出して乙の顔を打つ。

4.乙が左腕でこれを下から受けたら、甲は右足を、乙の腹へ蹴り込む。

5.もし乙が後へ体を引き、甲の右足を狙って膝を上げたら、甲は動作を止めずに、足を前に踏み出して、右手で乙の 顎を突く。

要点
この技も連続攻撃である。初めの鎖口錘は、受けを誘う技であり、もし、経験のない相手であれば、この一撃だけで人中穴に打撃を受け、気を失わせることができる。もし相手がこの突きを受けることが出来ても、劈掌、前蹴り、突きの連続攻撃で何もできないまま打ち倒されるのである。用いるときは、霊活にして、隙を伺うのである。

 

6.螳螂穿林

1.お互いに対峙して立つ。

2.乙が飛び込みながら甲の膝めがけて低い横蹴りを放った時、甲は右足に重心を移して、左膝を上げる。

3.蹴りを避けた後、そのまま左足を乙の足の間に進め、膝を緩めて小登山式となる。左手は勾手として、相手の 顔を牽制しながら、右手も同様に勾手で相手の股間を打ち上げる。

4.乙の反応を待たずにすぐに、右手を翻して乙の股間を続けて攻撃する。

5.乙が未だ倒れないときは、右足を進めて七星歩となりながら、乙の右足を拘束しながら、右拳で乙の喉を、はじくように打つ。

要点
この技は上取下打の法であり、相手の股間への攻撃を、勾手から挿手に変化させて繰り返し、相手の戦闘能力を失わせた上で、喉へのとどめの一撃を加える。特に注意しなければならないのは、隙の出来た相手の下半身へ攻撃する際に、フェイントを用いて相手の注意を引いてから、初めて打ち込むべきである。

戦前菜陽国術館追憶

中国武術の達人に、人間離れした感じを受けるのは思い過ごしだろうか。また、ただの乱暴者が、達人と呼ばれたのだろうか。螳螂拳の先達の履歴にも、そんな感じを拭い去る事ができなかった。

しかし、この「戦前莱陽国術館追憶」を読んで、国術館創設に尽力された老師方の姿にほっとした気持ちになった。と同時に、螳螂拳は、師父のおっしゃるとおり一門としての技術以外の精神面での技をも確立したのだと思った。

それまでは、実践一辺倒であった螳螂拳が、莱陽国術館を支えた老師達やその学生によって新しい価値が加えられ、まさに山東省を代表する門派となったのはうなずける。 何故、莱陽の三大山が有名になったのかが理解できる。

彼らには人を魅了する技術があったと共に、自分に厳しく、学生や民衆に対する徳があったからだと思う。武徳という言葉がまさにぴったりと当てはまる。

自分の中国語のレベルが低く、時代背景や生活、民族感覚までも汲み取ることが出来ないため、著者である趙老師の細かな意図まで反映させることが出来なくて残念だが、老師方の活躍が少しでも感じられればと思い、意訳で紹介することにする。

 

戦前莱陽国術館追憶<趙孟策>

◎1933年から1937年までの間、梨の郷である莱陽市で、梅花螳螂拳の拳師達が莱陽国術館を創設し、運営した。

◎当時、私の父である趙式廷は、莱陽国術館の教師であった。私は県立第一小学校、莱陽中学校に学び、父と共に莱陽国術館で生活していた。当時の見聞きした思い出を以下のように記す。

◎1932年秋、突然、?東地区において、韓復榘が、劉珍年軍閥打倒の戦争が始めた。莱陽市内では、劉珍年軍閥が、慌てふためいて構築工事をはじめ、学校は休校となり、工商業の機能は停止した。私は学業を中断し、故郷へ帰る羽目となった。

戦争は数ヶ月続き、劉珍年が、?東地区の撤退という結果で終戦を迎えた。莱陽市は韓復榘の手に落ち、凶悪な梁秉?が莱陽県長となった。

 ◎1933年春、莱陽市での戦争の傷跡は基本的に癒え、学校、工商業は再開した。省都済南等では、国術館創設が始まったとの連絡が入り、梅花螳螂拳師達の国術館勃興の気持ちに火をつけたのだった。

彼らは莱陽市に集まり、多忙な中、国術館の創設に向けて準備を始め、市内北の旧商家をその場所に定めようと相談した。

その旧商家は市内の西北の角地で、四方を高い塀で覆われ、正門は南を向き、三つの大部屋と、二つの大院から成り、後院には東西に広間があった。

 
 

私は莱陽市内の学校へ戻り、そこで父を探した。父は、私にそれぞれの老師達に挨拶をさせたのだった。私は、国術館の創設に向けて準備をしているのが、李昆山、劉竹園、張仲臣、王玉山、崔寿山、于鑑周と私の父の40歳を超えた7人の老師であることを知った。

◎李昆山は莱陽の由格庄の人で、叔父の李丹白について芸を学んだ。丹白の師は梅花螳螂拳師の姜化龍である。劉竹園は、莱陽市北門の人だ。張仲臣は、莱陽の張家灌の人で、やはり姜化龍から学んだ。

王玉山は莱陽の崔タン出身であり、崔寿山は莱陽の朱鹿村の出身、于鑑周は莱陽の呉格庄の出身であった。趙式廷は、莱陽の塹頭村の出身であり、四人の拳技は趙格庄の宋子徳から学んだものだった。

宋子徳は姜化龍の弟子であり、彼らは同年代であり、考え方や志向が似通っていた。拳師たちは、劉竹園をリーダーとして準備を進めていた。劉をリーダーとしたのは、彼の技芸が高かったからではなく、裕福であり、経済的な援助を想定したからだった。

◎劉竹園は野心を抱いており、この後しばらくして自分の腹心を招き、館内の仕事を独占して、発起人を皆追い出そうと企てた。この矛盾に対してどう対処すべきか。

私の父と李、王、張、崔、于老師たちは、相談分担して、市内の県衛門、国民党県党部、商務会、鎮公所、中学、師範学校などに働きかけて、北の旧商家にて武術表演と試合を行い、国術館の館長を選出することに決めた。彼らは劉竹園と試合をするつもりであった。

◎数日後、北の旧商家は、果たして県衛門、国民党県党部、商務会、鎮公所、中学、師範学校などに武術表演の招待を行なった。

これらの場所では、元々、武術表演に賛成であり、その試合を見たがり、武術の腕が優れたものを館長となることが当然だと思っていた。しかし、試合は行なわれず、ただ、拳法と武器の演武が行なわれただけだった。

というのも、劉竹園が家に逃げ込み、参加しなかったからだ。演武を見た人たちは、発起人達の武術の腕前に偽り無しと褒め称えた。発起人は李昆山を館長に、張、王、趙を教師に推薦し、 当事者と関係者から賛同を得た。

 こうして、莱陽国術館は組織編制を経て、山東省国術館より承認を得たのだった。

但し、この時、発起人である于鑑周は拳術を教えに故郷に帰り、崔寿山は煙台へ行き、そして劉竹園は行方知れずとなったのだった。

◎莱陽国術館はこうして成立したが、その経費は省からは支給されず、県衛門も関わりを持たなかったので、只、学生からの学費でまかなわれた。

 
 

◎当時の武術学習班は、4ヶ月で1期であり、40名の学生を募集した。一人当たりの費用は、毎月3元の学費と雑費1元であり、一ヶ月の収入は160元であった。父の記録では「教師の給料は毎月12元、事務員は毎月12元を支払い、余った費用は公費」とある。

当時、国術館の教師たちの生活は、大変質素なものだった。毎日の食事は三回で、一回は面、後の二回はトウモロコシの餅であり、おかずは、朝は漬物、昼と夜は少量の煮込みもので、一人あたり1ヶ月3元前後だった。

彼らは皆、お茶やタバコ、酒はやらず、例え客が来て彼らと一緒に食事をしても、ほとんど接待はしなかった。例え大切な客で、良い料理を頼んでも、接待は一度だけだった。私は1933年の夏に北の旧商家に引っ越して住食をしていたので、彼らの生活を良く知っているのだった。

◎私は国術館に住んでいたので、夜、老人からほんの少し螳螂拳の基本功を学んだが、学校の勉強が忙しく、宿題も多かったので、練習にはあまり積極的になれなかった。しかし、数名の先生方は、他の人が寝静まってからも、積極的に拳法や武器の練習をしているのに気が付いた。

しかも、屋外あるいは僅かな明かりの下で拳技を練っているのであった。ある晩、私は王玉山老師に「先生、早くお休みください」といった。王老師は上半身裸だったが、微笑んで言った。「梅の花は厳しい寒さの中でこそ香るものだ、分かるかね。」

この時、李老師が来て言った。「拳を教えるものは、君達学校の先生と同じではない。誰が襲ってきてもよいように常に備えなければならないのだ。」この先生方は、昔相手を打ち負かし、今日国術館で教えているのだ。

いつ相手が仇討ちに現れ、またどんな人から挑戦をうけるか分からない。拳を教えることは簡単ではないのだということが、この時私はやっと分かった。王老師は私が何も言わないのを見てまた微笑んでいった。

「孟策、何を考えているのだ。人が驚くような技芸を身に付けるには、苦しい練習が必要だ。お前が拳を学ぶのなら、このことは覚えておきなさい。」

◎国術館は、学生を募ったが、彼らは皆初心者ではなく、ほとんどが2,3年以上の経験者で、その多くは螳螂門であり、次には八卦、長拳門が多く、また猴拳、査拳、地?、形意、黒虎門等もいて、更に螳螂門では梅花、七星、六合等に分かれていた。

私は当時、国術館の学生ではなかったが、心の中では大変興味をもって見ていた。国術館の学生達は、皆私を師弟と呼んでくれたことは、大変嬉しかった。

◎国術館の教学時間は次のようであった。早朝は各人の自主練習、午前中は拳法、午後は武器、夜は自主練習。拳法は、主に太極拳と螳螂拳であった。武器は主に刀剣槍棍であり、四人の教師は分担し、決められた時間で授業をした。

◎授業が始まってから先生たちは、国術に含まれている意義を明らかにした。即ち、国術には太極、螳螂、八卦、長拳、猴拳、地?各派の拳法が含まれ、これらは国家、民族の貴重な財産であるから、只自分の好き嫌いといった門派のわだかまりを亡くすことが必要だと唱えた。

同時に生徒達に向けて、武徳の重要性を唱え、教師と生徒、生徒と生徒のお互いを尊重、敬愛することの必要性を唱えた。そして卒業試験に合格すると、卒業証書を支給した。

 ◎太極拳は、済南国術館より伝わったものだ。李、王の二人の老師は、済南にある山東省国術館で太極拳を学び、教師一人一人にテキストを持ち帰った。

それは田鎮峰がまとめたもので、テキストには著者と李景林の肖像写真が載せてあった。国術館では太極拳は必須科目であった。

◎梅花螳螂拳については、生徒の多くが数年の学習暦があったが、その他の拳法の学習を始めたばかりで、断片的に教える事が難しかったため、班に分けて教えた。

その内容は、梅花路、乱接、崩歩、八肘、摘要などであった。

◎武器は主に長槍、短刀、棍術、剣術で、規定の套路を全員が学習し、それが卒業試験の内容となった。

国術館では、規定の拳術や武器の套路以外に、朝晩を利用してお互いに八卦掌や猴拳、武器は、鉄鞭、虎頭鈎、馬?等を学んだ。

 
 

国術館内の空気には、学習意欲と情熱があふれていた。当時、私は毎日夜になると足を運んで、その光景を見つめていた。猴拳は、本当の猿が飛び跳ねるようであり、地?拳は、身を翻したり倒れ込んだりし、黒虎拳は屋内の壁を震わせるような気合を帯びていた。

また一枚の板を壁の上に渡し、拳を鍛えるためで逆立ちをしたり、二人で対練対打する者など、様々な姿を見ることが出来た。

◎学生が練習や交流している時は、父や数名の老師達はじっとその様子をみていた。そして、門派ごとの長所を研究し、その優れている点を学生に話して、更に練習をするよう勧めた。

こうして教師と学生の間の信頼は更に深くなり、門派に対するこだわりも徐々になくなっていった。後にある学生が、(秘伝である)鉄砂掌に用いる、薬の作り方を記した文献を父に持参したほどである。

◎国術館では、武術学習班以外に、10人程度の人が、病気の治療の為、気功を学んでいた。体が弱く、腫病、心臓病、腰や足の病を持つ人が多かった。教師たちは、毎日2回彼らに排気功を施した。

数ヶ月から半年で彼らの病状は回復し、国術館から離れていった。彼らの学費もまた4元だった。

◎国術館の教師達は、外部でも拳術や排気功を教えていたが、その収入は個人のものとなった。1934年から父は、莱陽中学と二つの村で武術教員をやっており、毎週それぞれの場所で教授をした。

王老師は、莱陽中学で学生に排気功を教え、李、張の二人の老師は莱陽市内の政府機関で太極拳を教えた。

◎国術館の教師は学生の武技のレベルを上げるために、毎週半日をかけて、拳法と武器の演武と二人の対練を行なう「国術大表演」を行なった。拳法は太極、螳螂、長拳、八卦、猴拳、地?、形意等。武器は、大刀、長槍、三節棍、大棍と宝剣、短刀、鉄鞭、虎頭鈎等だった。

教師たちも時間があれば参加した。ある日学校が終わってから帰ってくると、ある学生が馬?の演武をしていた。始めは腕から頭の上を回っていたが、突然高く放り投げ、再び体の上で回り始めた。

観衆は大騒ぎしなかったが、彼の表演と馬?の技量を褒め称えた。馬?の演武が終わったあと、空手進白刃を教師と二人で行い、止むことのない喝采を受けた。

◎1934年夏、山東省済南で全省国術試合の開催に当たり、全省各県の国術館に、技量の優れた武術家の参加通知が行なわれた。莱陽国術館では、李昆山老師は武器で、王玉山老師は拳法で参加した。

済南の試合では、李昆山は大槍対刺で、全省第一位となった。王玉山は、拳法対打に参加した。第1回戦で、韓復榘の狙撃隊の部隊長を試合場の下に突き落として気絶させてしまったため、続行不能となってしまった。

しかし王老師は李老師と共に、南京の全国大会への出場権を獲得した。結果、李老師は大槍で全国優勝し、銀(?金の間違いか)の盾を持ち帰った。王老師は試合の中で、判定負けとなり勝利には至らなかった。

◎私は、教師達から南京での試合の状況を聞いて、それがどのようなものだったのかようやく分かった。王老師は済南での試合で、太極提(?太極手の間違いか)を用いて、隊長を試合台の端へ追い詰め、陰陽迭掌を用いて試合台下へ落としてしまった。

当時、狙撃隊では物議をかもし出すほどの大騒ぎとなり、武力を用いてその資格を取り消し、罪を償わせようとしたが、韓復榘はこれを許さず、逆に「黒大漢の武術は素晴らしい」と褒め称え、再試合を阻止した。

李老師の大槍の腕前はすさまじかった。試合のときは長い棒の先に綿を巻いて、赤い色を付け、選手は白い服を着る。試合では赤く色の付いた方が、刺されたことになり、失点となる。試合は大体3:2または2:1で勝敗が決まる。

李老師の棒は、毎回相手を刺殺しており、相手は李老師を刺す事すらできなかった。元々、李老師はこの大槍術を叔父の李旦白から学び、李旦白は、神槍張永燕から親しく教授されたものだった。その張永燕は、滄州のある老師から伝承を受けた。

滄州のある老師とは、万里の長城から北方の江湖として過ごし、故郷へ帰った後、村のボスを撃退したことから、百を超える清の騎兵隊に追われる身となり、彼は槍でそのうちの数十人を殺傷して、馬を奪い?東に逃げ延びた。彼は張永燕にその槍術を教えて、3年でいなくなってしまった。

 ◎済南と南京での武術試合が終わり、李、王の両老師が戻ってから、莱陽では新しい展開が始まった。

暫くして、国術館で第一回の試合が行なわれた。試合は拳法と武器の二項目に分けられ、国術館の生徒以外の、県或いは県外からの武術愛好者も参加した。

当時、試合にエントリーした人数は200名を下らなかった。拳法と武器それぞれ十数名の使い手が選出され、賞品や賞状なども贈られた事から大いに盛り上がり、二日間にも及んだ。

崔寿山の息子、崔洪照が拳法で第一位となり、李昆山の弟子が、大槍で第一位となったのを覚えている。

また対打の試合も大変激しく、審判は、誤ってのケガ人を出さないようにすることが、重要な任務であった。

 
 

試合のルールは顔への攻撃と股間の蹴り上げを禁止していた。武器では、相手を傷つけるのではなく、ちょっと触れることで勝負を決定した。これに違反したものは出場資格を取り消された。

少しでも笛が鳴れば、選手は必ず手足を止めて、審判の指導に従わなければ成らなかった。こうしたルールの中でも、審判は心を引き締めて試合に望まなければならず、左手は口にくわえた呼子を握り、ケンカを止めるように右手を顔の前に伸ばした姿勢をとっていた。

◎痩せた選手と太った選手が出場した拳法の一試合でのことだった。打ち合いの中、突然痩せた選手が、太った選手の左大腿にとび蹴りを放った。太った選手は、この時、審判からの笛の合図を無視して、体をねじって斜腿を痩せた選手に放ったのだった。

もしこれが当たっていれば、大ケガにつながっただろうが、審判は眼にもとまらぬ蹴りを飛ばし、太った選手の足をさえぎった。彼はバランスを崩してその場に倒れ、ケガの発生を免れたのだった。

◎試合会場では、それぞれの門派の長所がうかがわれた。八卦門は、円を描くような動きの中に蹴りを用い、猴拳は軽快な動作でひっかくような攻撃を用いた。地?は相手を誘って突然足での攻撃を行なう。

太極拳は「四両千斤をはじく」通り、静を以って動を制するに長けている。長拳は、大きく拳脚を振るうことに長けていた。螳螂拳は、虚歩の姿勢で両手を前に出した閉手から、突然拳脚を連発させる。当時の観衆からは、螳螂門は技の変化が多く、拳脚のスピードがあり、ピストルの弾が連射されるようで、よける事が難しいと評価された。

◎市内では武術試合が、まるで歌のように流行し、国術は民族遺産であり、社会上重視するべきだという風潮ができつつあった。しかし、当時の役人は、「国術館の?を振りまわす乱暴者」と見ていた。文化程度が低く、単純で、喧嘩好きという意味である。

◎国術館の教学の活動と試合を開いた影響で、山東省や他の省から、若者から老人までの拳師たちが少なからず訪れていた。彼らは技の交流に来館し、毎年20人をくだらなかった。

或る時、一人の六,七十歳の老拳師が屋外で表演したとき、数回の前周り受身の型を演じたが、思いがけず3センチくらい突き出た石で背中を打ち、起き上がれなくなってしまった。王老師はすぐに駆け寄り、彼を抱き起こした。

彼は足を伸ばして、また地面を転がる演武を行ったのだった。50歳くらいの人は、「私は少林寺に行ったことがあるが。そこはすでに壁が崩れて面影はなかった」といった。

◎国術館の螳螂拳師たちは、教学の空いた時間に、よく梅花螳螂拳の歴史について話をした。彼らは姜化龍老師より昔の拳師たちの話をしていた。姜化龍の先生は梁老師で、梁の先生は趙珠であり、趙の武技は、李二爺が伝授したものだが、その武技をさずけた者の姓名はわからなかった。

王朗が螳螂拳の祖師という伝説だが、彼がその後誰に伝えたのかは、はっきりしない。だから李二爺はどのように螳螂拳を学んだのか。事情は次のようである:

●李二爺は、海陽の出身で、貧しい官吏試験を目指していた書生だった。彼の叔父は四川の官邸に住む司馬であり、彼は四川に行き、皆から李二爺と呼ばれた。或る時、監獄で一人の盗賊が病気を患っている光景に出くわした。

獄卒がいうには、この盗賊は傷寒をわずらっている所を捕らえらたのだという。李二爺は目を盗んで薬を煎じ、盗賊に飲ませた。病気が治ると脱獄し、助けてもらった恩を返すため、李二爺に螳螂拳を教授した。

後に、李司馬が北京の路上で刺殺され、李二爺はふるさとに戻って拳を教授した。或る時彼は、李司馬のもとへ行こうとして大門にさしかかった時、野犬の群れに襲われた。彼は、後から噛み付こうとした犬の舌をつかみ振り回して殺したので、他の犬は逃げ去ったのだった。

このことから彼は武名を上げた。李は多くの生徒に拳を教授したが、その中で最も優れていたのは趙珠だった。趙珠の家は屠殺を生業としていた。趙珠は老師を敬い、よく豚の内臓を李二爺に送り食べさせた。

李二爺は趙珠に尽力で武芸を教授し、趙珠も苦しい練習に耐えて、李二爺の全伝を継いだ。教師たちから聞いた話では、螳螂拳の先達の武芸は群を抜いていたが、社会的な地位は皆低く、李二爺は、貧しく官吏試験を目指し、趙珠の家は屠殺業であり、姜化龍の家は僅かな田畑しかなかった。

彼らは皆向上心が強く、苦しい練習を積んで武芸を学び、これを維持し、多くの人と戦うことで経験を積んだ上で名を成したのである。

◎国術館の教師と生徒は多くが品行方正で、金よりも義を好んだ。彼らはよく梁山泊の英雄の話をしたが、どのように金を投資して商いをするかとか、昇進して金を儲けるかの話はしたことがなかった。

彼らは当時、国民党県長の梁秉?の反共暴力に大きな不満をもっていて、よく議論をして罵っていた。当時、梁秉?の子供の梁学漢は、私と同じ莱陽中学の同じクラスにいたが、父は、私を彼から遠くへ離して教育を施し、彼の家へ遊びに行くことも禁止した。

数年の歳月が流れ、国術館には正義を保持する気質が出来上がっていた。或る時、梁秉?の悪事を働いた兵の一人が、国術館の厨房へ逃げ込んだが、教師と生徒によって外へ放り出された。

◎国術館の教師と生徒は、莱陽市内で過ごした数年間の間、市内とその周りで起きた不正な迫害を打ち破るために手を貸した。2,3人或る時には7,8人で行なわれた。人を傷つけるのではなく、悪さを正すことだった。

徐徐に不正な迫害は減っていった。国術館の教師と生徒の正義の行いは、人々に賞賛された。

◎「7・7」事変が起きた。櫨溝橋での戦闘の中、宋哲元の部下で兵役に当たっていた張哲生鎮長の子供の張家憲は、国のために戦死したが、七人の日本ファシスト兵を大刀で切り殺した。

彼は莱陽国術館の生徒で、教師と生徒は喜びと共に哀悼の意をささげた。抗日戦争の中、国術館は50名の学生を、韓復榘の部隊ではあったが、軍に送った。後に大刀隊は、黄河北岸の日本軍の前線基地を攻め、国術館の生徒の参戦で武功をたてたと聞いた。

◎1937年8月、国民党県長の梁秉?は多くの富を携えて、煙台から逃げ出した。莱陽は混乱に陥り、梅花螳螂拳の拳師たちが設立した莱陽国術館は、5年間で解散したのだった。