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螳螂拳源流考 其の三

第二の流れは姜化龍が山東省莱陽県趙各庄の人である宋子徳の伝承である。宋子徳は姜化龍と義兄弟であり、同年齢であった。但し宋家は裕福であり、また彼は博学で書を収め、大変螳螂拳を愛した。だから兄として師として姜に従い、懸命に拳芸を収めた。

姜化龍の拳譜と理論の資料は全て彼が執筆したものだ。 姜化龍の弟子顔学信は山東省莱陽県の人である。彼は姜が62歳の時の関門弟子である。顔学信は当時まだ12歳であったが、現在では太極梅花螳螂門の中では最高輩の一人であり、1984年で83歳だ。

姜化龍の弟子袁子は山東省長山島の人である。師から学ぶこと数年。功がなった後安東にて拳を教授し、その地で大変有名になった。 宋子徳の弟子紀春亭は山東省煙台の人であり、著名武術家の一人である。螳螂拳を非常に愛し、本門であった武芸を捨てる決意を固め、宋子徳の教えを受けた。

昔の技芸が高かったため、六ヶ月ほど苦学したのち、螳螂拳の名家となった。後に奉天の試合に出場した際、螳螂拳の「滾幇肘」の技に熟達しており相手を破り、優勝した。後に彼を銃で暗殺しようとする者が現れ、やむを得ず煙台に戻り拳を教えた。 宋子徳の弟子崔明年は、またの名を寿山といい、山東省莱陽県諸陸の人である。

李坤山は莱陽県由各庄の人である。そして王玉山は山東省莱陽県崔③の人である。この三人は姜化龍と宋子徳が同じ場所で教えていた時の弟子であり、姜老師の自らの指導を得て、その功夫はなみなみならぬものがあり、莱陽三大山」と呼ばれた。

崔寿山は姜師の拳譜と理論をもとに資料を整理し、上下二冊の本を作った。崔老師は大連市で拳を教授し、晩年には山東の故郷へ帰ったが、九十歳の時一度大連に来られて、後山東の故郷で亡くなった。

李坤山は槍が得意だった。螳螂拳の技を槍の技術に応用し、その「鳳凰三点頭」「底漏槍」等の技は、まさに神出鬼没であった。1933年南京で行われた試合では、大槍で優勝し、金盾と金字で「一支干戈震東洋、半世英雄傳天下」書かれた額を受け取った。

王玉山もこの試合に参加した。彼の鉄拳は爆雨の如き激しさであり、「一肘遮半身」「翻車捶」「轆轤捶」等の技は相手が受けることのできないものであった。大きな勝利を得た。「莱陽三大山」の武林での名は高く響き、膠東一帯では多くの人に芸を教授した。

袁子の弟子の金立徳は丹東市の人である。師から長年の教えを受け、その技芸は驚くべきものがある。 丹東において風城などの地でその技芸を教授し、大きな影響を与えた。 崔寿山の弟子の曲伸は長春市の人である。大連にて崔寿山の教えを受け、崔師の拳譜とその他の資料を持っている。

現在長春市において拳芸を教授しており、1984年で60歳になる。 崔寿山の弟子の劉忠凱は大連市の人である。早い時期から師の元で拳芸の鍛練をつみ、大連でその拳を教授した。その技芸は大変奥が深く、1984年で83歳になる。紀春亭の弟子の趙幇祥は大連市の人である。彼は紀老師が伝えた拳譜とその他の資料を持っている。

「文化大革命」の際、彼の弟子達はその原本を焼失してしまったが、その写し本は密かに守られた。この武芸に対する献身的な精神は多くの人から尊敬されている。1984年で83歳になる。 以上が螳螂拳第二の流れである。

③ 

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四

螳螂拳源流考 其の二

 梁学香先生の長男、梁井川は清朝末期武科挙に合格し、武術は父からその真伝を得て螳螂拳の技法を発展させた。彼の弟子(第5代)は孫の梁振照であり、現在も海洋県于山村に住んでいる。

 梁学香先生の弟子赫連玉は山東省煙台の人で、梁井川とは兄弟であり、螳螂拳の真伝を得て、現在は煙台の赫斌老師がその技を受け継いでいる。

 梁学香先生の弟子姜化龍は山東省莱陽県黄金溝村の人である。彼は元々「地功拳」を学んでいたが、別の拳術に試合で敗れ、武芸の精進の甘さを深く反省し、梁学香先生の門下に入り螳螂拳の修行に身を置いた。十数年して腕をあげた後、煙台で教えた。

弟子の宋子徳と共に梁師螳螂拳の理論を基礎に、長年の拳法修業の精華を合わせて一冊の拳譜を書いた。また彼は一人で第七段摘要と呼ばれる「地功精」の套路を作り、更に「羅漢拳」の中の「翻車」を螳螂拳の中に組み込んだ。

姜化龍は螳螂拳の発展に対して卓越した貢献を行ったのだ。姜化龍は煙台に長年住み、69歳で亡くなった。梁井川、赫連玉、姜化龍は螳螂拳の第四代の伝人である

 ここから太極梅花螳螂拳は三派に分かれ、伝承されていくのである。

 第一の流れは梁井川の教えを受けた黄永凱であり、山東省海洋県の人である。彼は小さい頃から梁家にて螳螂拳を学んだ。民国2年に煙台にて道場を開き、4年後には安東市(現在の丹東市)で螳螂拳を教えた。その後民国10年に一度煙台に戻った。

そこで弟子の林世欽等は、黄永凱に煙台で螳螂拳の教授を続けて欲しいと懇願したが、黄永凱は林が陳徳善より自由博撃術を学んでいることを知り、安東へ帰った。この時以来煙台には戻らず、後に安東にて亡くなった。

 黄永凱の弟子林世欽は山東省煙台の人である。民国2年から黄永凱の下で拳を学ぶこと4年、当時林はまだ14歳であった。その後軍隊に入隊し抗戦時に重慶で開かれた試合に参加している。当時47歳であった。林世欽はこの試合で地方の拳士に及ばず、後に煙台に戻り、解放後に世を去った。

 黄永凱の弟子紀忠徳は煙台の人である。当時は港で働いていた。拳を学んでいた時、赫連玉の子赫恒路と争いとなったが、その後落ち着いた。この為、紀忠徳は上海に出て拳を教えて生活した。

 黄永凱の弟子于世遠は山東省莱陽の人である。安東にて黄永凱の門下に入り、安東で行われた少林武術大会と試合に参加した。また二度ほど日本人との武術試合にも立ち会い、共に勝利した。

後に日本人の報復を避けて吉林臨江林区に至り、鶏西、伊春などの地を転々とし、解放後四平市に居を構え、螳螂拳の多くの套路と「十八羅漢拳」の套路、長・短の兵器を教授し、梁家から伝わった螳螂拳譜と多くの理論の一部を保存した。

于老師は四平市の武術活動の発展に大きく貢献した。于世遠老師は1978年10月17日脳溢血が原因でこの世を去った。享年73歳だった。

以上が螳螂拳の第一の流れである

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四

 

螳螂拳源流考 其の一

 螳螂拳は明代末期から清代初めに陜西省淳化拳士、王朗(字は文成)が作り出し、伝えたものだ。王朗は、カマキリが蝉を捉える巧みですばやい動きと、激しい動きを見て深く感銘を受け、黏、粘、幇、貼、来、叫、順、送、提、拿、封、閉、勾、、采、掛などの武術としての手法を編出し、北派螳螂拳の風格を作り出した。

北派螳螂拳は早い時期から山東省膠東一帯に広がり、以後徐々に流派が分かれたのだ。主な流派には太極梅花螳螂拳、七星螳螂拳、六合螳螂拳があり、その他にも北派螳螂拳をベースにその他の拳術を混ぜた螳螂拳もある。

例えば通臂螳螂、馬猴螳螂、手螳螂、鴛鴦螳螂、光板螳螂、八歩螳螂、金踐螳螂、明古螳螂などである。それぞれの風格は、その螳螂拳の体系に大きな影響を与えている。ここで北派太極梅花螳螂拳の主な師承伝人を以下簡単に紹介する。

 

 螳螂拳を作り出した王朗の第一代の伝人は趙啓禄である。又の名を趙柄栄と言い、幼名を趙珠という。山東莱陽県趙家人である。彼は勤勉でかつ武術を学び、少年期には文才にあふれており、武術の腕前はずば抜けていた。そして陜西省淳化県の役人として赴任していた。

役人を辞めて故郷に帰った時、螳螂拳を莱陽に伝えたのだ。趙は長年の稽古と工夫の末、その妙技を得た。そして「崩歩」「分身八肘」を基礎に他の拳術の精華を加えて、更に螳螂拳の力の特徴にしたがって「乱截」の一套路を創設した。

このことは螳螂拳の発展にとって大きな貢献となった。趙啓禄は螳螂拳の第一代の伝人である。

 趙啓禄の弟子は李炳霄である。若い頃より医術を学び、その腕は大したもので、人の為に尽くした。ある晩秋、盗賊が住処から離れた場所で病に犯され、たまたま通りかかった李炳霄と遭遇し、看病に尽力した。

それに多いに感激した盗賊は、病が癒えた後も一年程李家に留まり、自らその武技を李炳霄に伝えたのだった。その武術がどのようなものだったのかは、その考証する資料が無い。その時より李炳霄は武門へと足を踏み入れた。

この頃趙啓禄は役人を辞めて故郷に帰っていたので、李はすぐにその門下生となったのだ。趙啓禄はその人格が優れているのを見抜き、心より技を伝授したので、李炳霄は螳螂拳の一大拳士となった。李炳霄は晩年「崩歩」「乱截」「分身八肘」と学んだ武技のポイントを取り出して、六段の「摘要」を作り出した。

以後歴代の拳士は軽々しくこの拳を伝えなかった。李炳霄は螳螂拳の第二代の伝人である。

 李炳霄の弟子の梁学香は山東省海洋県于山村(莱陽県との県境)の人である。彼は幼い頃より李家で働いていた。彼は頭が良く学問好きで、李炳霄が稽古をしているとその傍らで盗み見て拳を練った。ある晩、いつものように盗み見た拳を自分で練習していると李炳霄が現れた。

李はその熱意に感動し、自分の弟子とした。学香は十数年苦労して螳螂拳の修行を行い、大きな進歩を遂げたのだった。当時の武林での名声は高く、陜西「十大刀客」を退けた。 梁学香は三冊の本を著し、螳螂門の発展に大きな貢献を果たした。

螳螂拳の拳理、拳譜は全てその中に現されている。その中の一冊「拳棍槍譜」は咸豊年間に「徳順堂」の名で著わされた。更に一冊の「拳譜」は1853年に書かれている。もう一冊は書かれた年代は不祥であるが、一部に挿し絵が入っている。

この三冊の本は140年前に全て書かれたものであり、螳螂拳の元々の姿と当時完成された姿を現した貴重な資料である。 梁学香先生は「拳譜」の中で3つの套路を整理した。即ち「崩歩」「乱截」「分身八肘」であり、以後歴代の拳士はこの三拳を螳螂門の中心とし、「崩歩走、乱截守、打人看八肘」の説を生んだ。

梁学香先生は後に北京に出て、シルクの店を営んでいた。経済的にも裕福で、その武術の腕は高く、長男の梁井川と共に、当時の武林で「梁家父子」とあだ名された。梁学香先生は螳螂拳の第三代の伝人である。

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② 

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螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四