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螳螂拳源流考 其の一

 螳螂拳は明代末期から清代初めに陜西省淳化拳士、王朗(字は文成)が作り出し、伝えたものだ。王朗は、カマキリが蝉を捉える巧みですばやい動きと、激しい動きを見て深く感銘を受け、黏、粘、幇、貼、来、叫、順、送、提、拿、封、閉、勾、、采、掛などの武術としての手法を編出し、北派螳螂拳の風格を作り出した。

北派螳螂拳は早い時期から山東省膠東一帯に広がり、以後徐々に流派が分かれたのだ。主な流派には太極梅花螳螂拳、七星螳螂拳、六合螳螂拳があり、その他にも北派螳螂拳をベースにその他の拳術を混ぜた螳螂拳もある。

例えば通臂螳螂、馬猴螳螂、手螳螂、鴛鴦螳螂、光板螳螂、八歩螳螂、金踐螳螂、明古螳螂などである。それぞれの風格は、その螳螂拳の体系に大きな影響を与えている。ここで北派太極梅花螳螂拳の主な師承伝人を以下簡単に紹介する。

 

 螳螂拳を作り出した王朗の第一代の伝人は趙啓禄である。又の名を趙柄栄と言い、幼名を趙珠という。山東莱陽県趙家人である。彼は勤勉でかつ武術を学び、少年期には文才にあふれており、武術の腕前はずば抜けていた。そして陜西省淳化県の役人として赴任していた。

役人を辞めて故郷に帰った時、螳螂拳を莱陽に伝えたのだ。趙は長年の稽古と工夫の末、その妙技を得た。そして「崩歩」「分身八肘」を基礎に他の拳術の精華を加えて、更に螳螂拳の力の特徴にしたがって「乱截」の一套路を創設した。

このことは螳螂拳の発展にとって大きな貢献となった。趙啓禄は螳螂拳の第一代の伝人である。

 趙啓禄の弟子は李炳霄である。若い頃より医術を学び、その腕は大したもので、人の為に尽くした。ある晩秋、盗賊が住処から離れた場所で病に犯され、たまたま通りかかった李炳霄と遭遇し、看病に尽力した。

それに多いに感激した盗賊は、病が癒えた後も一年程李家に留まり、自らその武技を李炳霄に伝えたのだった。その武術がどのようなものだったのかは、その考証する資料が無い。その時より李炳霄は武門へと足を踏み入れた。

この頃趙啓禄は役人を辞めて故郷に帰っていたので、李はすぐにその門下生となったのだ。趙啓禄はその人格が優れているのを見抜き、心より技を伝授したので、李炳霄は螳螂拳の一大拳士となった。李炳霄は晩年「崩歩」「乱截」「分身八肘」と学んだ武技のポイントを取り出して、六段の「摘要」を作り出した。

以後歴代の拳士は軽々しくこの拳を伝えなかった。李炳霄は螳螂拳の第二代の伝人である。

 李炳霄の弟子の梁学香は山東省海洋県于山村(莱陽県との県境)の人である。彼は幼い頃より李家で働いていた。彼は頭が良く学問好きで、李炳霄が稽古をしているとその傍らで盗み見て拳を練った。ある晩、いつものように盗み見た拳を自分で練習していると李炳霄が現れた。

李はその熱意に感動し、自分の弟子とした。学香は十数年苦労して螳螂拳の修行を行い、大きな進歩を遂げたのだった。当時の武林での名声は高く、陜西「十大刀客」を退けた。 梁学香は三冊の本を著し、螳螂門の発展に大きな貢献を果たした。

螳螂拳の拳理、拳譜は全てその中に現されている。その中の一冊「拳棍槍譜」は咸豊年間に「徳順堂」の名で著わされた。更に一冊の「拳譜」は1853年に書かれている。もう一冊は書かれた年代は不祥であるが、一部に挿し絵が入っている。

この三冊の本は140年前に全て書かれたものであり、螳螂拳の元々の姿と当時完成された姿を現した貴重な資料である。 梁学香先生は「拳譜」の中で3つの套路を整理した。即ち「崩歩」「乱截」「分身八肘」であり、以後歴代の拳士はこの三拳を螳螂門の中心とし、「崩歩走、乱截守、打人看八肘」の説を生んだ。

梁学香先生は後に北京に出て、シルクの店を営んでいた。経済的にも裕福で、その武術の腕は高く、長男の梁井川と共に、当時の武林で「梁家父子」とあだ名された。梁学香先生は螳螂拳の第三代の伝人である。

① 

② 

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螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~

 螳螂拳の伝承には様々な説が有り、民間で伝承されてきたため、資料もあまり残されていない。中国から出版されている武術雑誌の中に非常に史実をまじめに考察したと思われる資料が有ったので、是非ここに紹介したいと思い訳を試みた。

中国語は薄学なので、意訳部分が多く、細かい表現では間違いも有ると思うが、大筋は紹介できたと思っている。 拳士の素顔にはなかなか触れることができない。特に我々に最も縁の深い「莱陽三大山」の崔寿山老師の写真が入手できないのは、非常に残念だ。

昔、王元亮師父から螳螂拳は陜西省の拳法で、それを第一代の李炳霄が山東に持ち帰ってきたという話を聞いた。そして陜西省の螳螂拳の真伝が絶えたのだから、山東の螳螂拳も根絶するべきだとして侠客が送られたが、第二代趙珠がそれを迎え撃ち、疲労の為片方の目を病んでしまったとも聞いた。

莱陽県誌には第一代は李炳霄、第二代は趙珠として記録されている。しかし最近の考証ではどうもこれが逆転しているようだ。李炳霄老師が医術を心得ていたというのは共通した事実のようだ。趙家の家系譜はしっかりしたものがあるから、官吏として活躍していた可能性が高いと思う。

従って趙珠老師が官吏として陜西省に赴任していたのなら、新しい考証が正しい事になるのだろう。しかし、いずれにせよ螳螂拳がこの二人先達の苦練工夫の末、第三代、梁学香老師に伝えられたことは間違いない。

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四

螳螂拳創始伝説その三

 螳螂拳の創始人、王朗という者、山東即墨王龍堡の人なり。その父、名は王滿堂、家資は滿貫、良田は千頃(十万畝)たり。その人となり、性情は人に厚く、誠実たり。ただその一生に僅かに一子のみを授かる。すなわちその子が、王朗なり。王氏、生まれながらにして聡慧なり。

 その父、子を愛する心、切なり、儒の者、教師などを家に招き、詩書を習わす外に、礼を以って名師を招き、武藝をも学ばす。しかしいまだ幾時もたたぬときに、清兵この堡に来たりて駐屯す。滿清、軍田制度を採用し、王家の地、ことごとく没収せんとす。

 わずかにこれに抗せんとするが、王家の者、のこさず全家、清兵に殺されるなり。王朗もまた、傷を受け、河の中に蹴り落とされる。河に流され行くところ、少林寺遊方和尚、痛襌上人という者に救わるる。王は家郷に在るにすでに数師の傳授を経て、また少林寺等に赴き深造することもあり。

 王氏を救い出したるは少林寺の住持なり、ゆえに王氏を寺に連れ帰る。教える者は認真たり、学ぶものは努力を惜しまず、王は、六七年の間に少林の絶技をことごとく得たり。しかしすなわち大師兄の手のもとには常に敗れたり。王は山中に練拳の後、正に愁い悶々とするそのとき、蝉の騒ぐ聲を聞く。

 見上げるにすなわち一螳螂、その雙爪を舞わせて蝉を捕らえるあり。これに王朗、悟るところあり、螳螂を捕らえて寺中に帰り、毎日草を以って逗し弄ぶ。螳螂を見るに、雙目を怒り見開き、雙爪を舞い振るうに度がある、細心の観察を以ってこれを研究揣摩す。

 これに得たる爪法を学びし十八家宗法の内に融入す。また機縁ありて、猿猴の歩みの快捷を見、これも一つに併せて吸収融化する。練習、数年ありて、再び大師兄と角す。大師兄、ただ王朗の敵することをあたわざるに非ず、且つ手を一つ交えるにすなわち投げ倒されるなり。

 その大師兄、王朗の背師叛道を疑う、住持に報告し、寺僧みなこれに争論す。王朗、住持の盤問の下、はじめて詳らかに螳螂に向かいて勾?採掛等の手法を研習し、猿猴の靈活な歩法をあわせて拳に致すことを云う。住持は深く喜び、また寺僧たちの嘉許をも得、王に編み出したる技を携え各地を旅し、名家を訪ね切磋することを許す。

 王は寺を出でた後、豫、皖、冀、魯等の省を遍く訪ね、その武を以って多くの友に会う、どこにおいても王朗に敵しあたう者なし。王朗、最後に[山勞]山に足を落とすと聞く、しかしいまだその終わるところを知らず。