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螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~

 螳螂拳の伝承には様々な説が有り、民間で伝承されてきたため、資料もあまり残されていない。中国から出版されている武術雑誌の中に非常に史実をまじめに考察したと思われる資料が有ったので、是非ここに紹介したいと思い訳を試みた。

中国語は薄学なので、意訳部分が多く、細かい表現では間違いも有ると思うが、大筋は紹介できたと思っている。 拳士の素顔にはなかなか触れることができない。特に我々に最も縁の深い「莱陽三大山」の崔寿山老師の写真が入手できないのは、非常に残念だ。

昔、王元亮師父から螳螂拳は陜西省の拳法で、それを第一代の李炳霄が山東に持ち帰ってきたという話を聞いた。そして陜西省の螳螂拳の真伝が絶えたのだから、山東の螳螂拳も根絶するべきだとして侠客が送られたが、第二代趙珠がそれを迎え撃ち、疲労の為片方の目を病んでしまったとも聞いた。

莱陽県誌には第一代は李炳霄、第二代は趙珠として記録されている。しかし最近の考証ではどうもこれが逆転しているようだ。李炳霄老師が医術を心得ていたというのは共通した事実のようだ。趙家の家系譜はしっかりしたものがあるから、官吏として活躍していた可能性が高いと思う。

従って趙珠老師が官吏として陜西省に赴任していたのなら、新しい考証が正しい事になるのだろう。しかし、いずれにせよ螳螂拳がこの二人先達の苦練工夫の末、第三代、梁学香老師に伝えられたことは間違いない。

螳螂拳源流考~螳螂拳の歴史を求めて~
螳螂拳源流考 其の一
螳螂拳源流考 其の二
螳螂拳源流考 其の三
螳螂拳源流考 其の四

螳螂拳創始伝説その三

 螳螂拳の創始人、王朗という者、山東即墨王龍堡の人なり。その父、名は王滿堂、家資は滿貫、良田は千頃(十万畝)たり。その人となり、性情は人に厚く、誠実たり。ただその一生に僅かに一子のみを授かる。すなわちその子が、王朗なり。王氏、生まれながらにして聡慧なり。

 その父、子を愛する心、切なり、儒の者、教師などを家に招き、詩書を習わす外に、礼を以って名師を招き、武藝をも学ばす。しかしいまだ幾時もたたぬときに、清兵この堡に来たりて駐屯す。滿清、軍田制度を採用し、王家の地、ことごとく没収せんとす。

 わずかにこれに抗せんとするが、王家の者、のこさず全家、清兵に殺されるなり。王朗もまた、傷を受け、河の中に蹴り落とされる。河に流され行くところ、少林寺遊方和尚、痛襌上人という者に救わるる。王は家郷に在るにすでに数師の傳授を経て、また少林寺等に赴き深造することもあり。

 王氏を救い出したるは少林寺の住持なり、ゆえに王氏を寺に連れ帰る。教える者は認真たり、学ぶものは努力を惜しまず、王は、六七年の間に少林の絶技をことごとく得たり。しかしすなわち大師兄の手のもとには常に敗れたり。王は山中に練拳の後、正に愁い悶々とするそのとき、蝉の騒ぐ聲を聞く。

 見上げるにすなわち一螳螂、その雙爪を舞わせて蝉を捕らえるあり。これに王朗、悟るところあり、螳螂を捕らえて寺中に帰り、毎日草を以って逗し弄ぶ。螳螂を見るに、雙目を怒り見開き、雙爪を舞い振るうに度がある、細心の観察を以ってこれを研究揣摩す。

 これに得たる爪法を学びし十八家宗法の内に融入す。また機縁ありて、猿猴の歩みの快捷を見、これも一つに併せて吸収融化する。練習、数年ありて、再び大師兄と角す。大師兄、ただ王朗の敵することをあたわざるに非ず、且つ手を一つ交えるにすなわち投げ倒されるなり。

 その大師兄、王朗の背師叛道を疑う、住持に報告し、寺僧みなこれに争論す。王朗、住持の盤問の下、はじめて詳らかに螳螂に向かいて勾?採掛等の手法を研習し、猿猴の靈活な歩法をあわせて拳に致すことを云う。住持は深く喜び、また寺僧たちの嘉許をも得、王に編み出したる技を携え各地を旅し、名家を訪ね切磋することを許す。

 王は寺を出でた後、豫、皖、冀、魯等の省を遍く訪ね、その武を以って多くの友に会う、どこにおいても王朗に敵しあたう者なし。王朗、最後に[山勞]山に足を落とすと聞く、しかしいまだその終わるところを知らず。

螳螂拳創始伝説その二

 明末、魯の人、王朗、少林寺に於いて武を学ぶ。藝成りて遊に出づるに、單通という者に遇う。單通、その身は天生の通臂たり、その臂は左右相通ずるにあたう。二人技を較べるに三日三晩あり、されども王の技、單通の身に及ばざる。

 王朗かえりて、樹の下に憩いて、破解の法に苦思する。縁樹の下にて、一螳螂を見る、すなわち草の茎にて之と戯る。その動作を観ずるに、閃轉靈活、二足は時に左を前に右を後ろに、時に右を前に左を後ろに、一勾一打これに似る、その轉變に度あり。

 これに王は短を以って長に敵する法を即座に悟る。すなわち朝夕にこれを観察し模倣する。またある日、樹の下において練習するに、一猿猴にあう。猿、王の衣を取りて去る、王これを追う。王の手まさに猿の身に及ばんが瞬間、猿すなわち閃身し脱する。

 この如きこと再びありて、猿、衣を棄て去る。王、自思す、己の歩法遅きにあらざる、何ゆえ猿に及ばざるや。すなわち王、猿の足跡を見、變換角度を観察し、之に習い模倣する。後に螳螂の手法と猿猴の歩法を並べ、自らの拳に揉合する。いわゆる螳螂門の特点たる、螳螂手、猿猴歩なり。功成りて、再び單通を尋ね、技を較べる。数度手を交えるに、單通、均しく王の手に敗れる。これより螳螂門、武林に名を轟かす。