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月刊 秘伝 2010年 09月号2

月刊 秘伝 2010年 09月号2

戦前菜陽国術館追憶

中国武術の達人に、人間離れした感じを受けるのは思い過ごしだろうか。また、ただの乱暴者が、達人と呼ばれたのだろうか。螳螂拳の先達の履歴にも、そんな感じを拭い去る事ができなかった。

しかし、この「戦前莱陽国術館追憶」を読んで、国術館創設に尽力された老師方の姿にほっとした気持ちになった。と同時に、螳螂拳は、師父のおっしゃるとおり一門としての技術以外の精神面での技をも確立したのだと思った。

それまでは、実践一辺倒であった螳螂拳が、莱陽国術館を支えた老師達やその学生によって新しい価値が加えられ、まさに山東省を代表する門派となったのはうなずける。 何故、莱陽の三大山が有名になったのかが理解できる。

彼らには人を魅了する技術があったと共に、自分に厳しく、学生や民衆に対する徳があったからだと思う。武徳という言葉がまさにぴったりと当てはまる。

自分の中国語のレベルが低く、時代背景や生活、民族感覚までも汲み取ることが出来ないため、著者である趙老師の細かな意図まで反映させることが出来なくて残念だが、老師方の活躍が少しでも感じられればと思い、意訳で紹介することにする。

 

戦前莱陽国術館追憶<趙孟策>

◎1933年から1937年までの間、梨の郷である莱陽市で、梅花螳螂拳の拳師達が莱陽国術館を創設し、運営した。

◎当時、私の父である趙式廷は、莱陽国術館の教師であった。私は県立第一小学校、莱陽中学校に学び、父と共に莱陽国術館で生活していた。当時の見聞きした思い出を以下のように記す。

◎1932年秋、突然、?東地区において、韓復榘が、劉珍年軍閥打倒の戦争が始めた。莱陽市内では、劉珍年軍閥が、慌てふためいて構築工事をはじめ、学校は休校となり、工商業の機能は停止した。私は学業を中断し、故郷へ帰る羽目となった。

戦争は数ヶ月続き、劉珍年が、?東地区の撤退という結果で終戦を迎えた。莱陽市は韓復榘の手に落ち、凶悪な梁秉?が莱陽県長となった。

 ◎1933年春、莱陽市での戦争の傷跡は基本的に癒え、学校、工商業は再開した。省都済南等では、国術館創設が始まったとの連絡が入り、梅花螳螂拳師達の国術館勃興の気持ちに火をつけたのだった。

彼らは莱陽市に集まり、多忙な中、国術館の創設に向けて準備を始め、市内北の旧商家をその場所に定めようと相談した。

その旧商家は市内の西北の角地で、四方を高い塀で覆われ、正門は南を向き、三つの大部屋と、二つの大院から成り、後院には東西に広間があった。

 
 

私は莱陽市内の学校へ戻り、そこで父を探した。父は、私にそれぞれの老師達に挨拶をさせたのだった。私は、国術館の創設に向けて準備をしているのが、李昆山、劉竹園、張仲臣、王玉山、崔寿山、于鑑周と私の父の40歳を超えた7人の老師であることを知った。

◎李昆山は莱陽の由格庄の人で、叔父の李丹白について芸を学んだ。丹白の師は梅花螳螂拳師の姜化龍である。劉竹園は、莱陽市北門の人だ。張仲臣は、莱陽の張家灌の人で、やはり姜化龍から学んだ。

王玉山は莱陽の崔タン出身であり、崔寿山は莱陽の朱鹿村の出身、于鑑周は莱陽の呉格庄の出身であった。趙式廷は、莱陽の塹頭村の出身であり、四人の拳技は趙格庄の宋子徳から学んだものだった。

宋子徳は姜化龍の弟子であり、彼らは同年代であり、考え方や志向が似通っていた。拳師たちは、劉竹園をリーダーとして準備を進めていた。劉をリーダーとしたのは、彼の技芸が高かったからではなく、裕福であり、経済的な援助を想定したからだった。

◎劉竹園は野心を抱いており、この後しばらくして自分の腹心を招き、館内の仕事を独占して、発起人を皆追い出そうと企てた。この矛盾に対してどう対処すべきか。

私の父と李、王、張、崔、于老師たちは、相談分担して、市内の県衛門、国民党県党部、商務会、鎮公所、中学、師範学校などに働きかけて、北の旧商家にて武術表演と試合を行い、国術館の館長を選出することに決めた。彼らは劉竹園と試合をするつもりであった。

◎数日後、北の旧商家は、果たして県衛門、国民党県党部、商務会、鎮公所、中学、師範学校などに武術表演の招待を行なった。

これらの場所では、元々、武術表演に賛成であり、その試合を見たがり、武術の腕が優れたものを館長となることが当然だと思っていた。しかし、試合は行なわれず、ただ、拳法と武器の演武が行なわれただけだった。

というのも、劉竹園が家に逃げ込み、参加しなかったからだ。演武を見た人たちは、発起人達の武術の腕前に偽り無しと褒め称えた。発起人は李昆山を館長に、張、王、趙を教師に推薦し、 当事者と関係者から賛同を得た。

 こうして、莱陽国術館は組織編制を経て、山東省国術館より承認を得たのだった。

但し、この時、発起人である于鑑周は拳術を教えに故郷に帰り、崔寿山は煙台へ行き、そして劉竹園は行方知れずとなったのだった。

◎莱陽国術館はこうして成立したが、その経費は省からは支給されず、県衛門も関わりを持たなかったので、只、学生からの学費でまかなわれた。

 
 

◎当時の武術学習班は、4ヶ月で1期であり、40名の学生を募集した。一人当たりの費用は、毎月3元の学費と雑費1元であり、一ヶ月の収入は160元であった。父の記録では「教師の給料は毎月12元、事務員は毎月12元を支払い、余った費用は公費」とある。

当時、国術館の教師たちの生活は、大変質素なものだった。毎日の食事は三回で、一回は面、後の二回はトウモロコシの餅であり、おかずは、朝は漬物、昼と夜は少量の煮込みもので、一人あたり1ヶ月3元前後だった。

彼らは皆、お茶やタバコ、酒はやらず、例え客が来て彼らと一緒に食事をしても、ほとんど接待はしなかった。例え大切な客で、良い料理を頼んでも、接待は一度だけだった。私は1933年の夏に北の旧商家に引っ越して住食をしていたので、彼らの生活を良く知っているのだった。

◎私は国術館に住んでいたので、夜、老人からほんの少し螳螂拳の基本功を学んだが、学校の勉強が忙しく、宿題も多かったので、練習にはあまり積極的になれなかった。しかし、数名の先生方は、他の人が寝静まってからも、積極的に拳法や武器の練習をしているのに気が付いた。

しかも、屋外あるいは僅かな明かりの下で拳技を練っているのであった。ある晩、私は王玉山老師に「先生、早くお休みください」といった。王老師は上半身裸だったが、微笑んで言った。「梅の花は厳しい寒さの中でこそ香るものだ、分かるかね。」

この時、李老師が来て言った。「拳を教えるものは、君達学校の先生と同じではない。誰が襲ってきてもよいように常に備えなければならないのだ。」この先生方は、昔相手を打ち負かし、今日国術館で教えているのだ。

いつ相手が仇討ちに現れ、またどんな人から挑戦をうけるか分からない。拳を教えることは簡単ではないのだということが、この時私はやっと分かった。王老師は私が何も言わないのを見てまた微笑んでいった。

「孟策、何を考えているのだ。人が驚くような技芸を身に付けるには、苦しい練習が必要だ。お前が拳を学ぶのなら、このことは覚えておきなさい。」

◎国術館は、学生を募ったが、彼らは皆初心者ではなく、ほとんどが2,3年以上の経験者で、その多くは螳螂門であり、次には八卦、長拳門が多く、また猴拳、査拳、地?、形意、黒虎門等もいて、更に螳螂門では梅花、七星、六合等に分かれていた。

私は当時、国術館の学生ではなかったが、心の中では大変興味をもって見ていた。国術館の学生達は、皆私を師弟と呼んでくれたことは、大変嬉しかった。

◎国術館の教学時間は次のようであった。早朝は各人の自主練習、午前中は拳法、午後は武器、夜は自主練習。拳法は、主に太極拳と螳螂拳であった。武器は主に刀剣槍棍であり、四人の教師は分担し、決められた時間で授業をした。

◎授業が始まってから先生たちは、国術に含まれている意義を明らかにした。即ち、国術には太極、螳螂、八卦、長拳、猴拳、地?各派の拳法が含まれ、これらは国家、民族の貴重な財産であるから、只自分の好き嫌いといった門派のわだかまりを亡くすことが必要だと唱えた。

同時に生徒達に向けて、武徳の重要性を唱え、教師と生徒、生徒と生徒のお互いを尊重、敬愛することの必要性を唱えた。そして卒業試験に合格すると、卒業証書を支給した。

 ◎太極拳は、済南国術館より伝わったものだ。李、王の二人の老師は、済南にある山東省国術館で太極拳を学び、教師一人一人にテキストを持ち帰った。

それは田鎮峰がまとめたもので、テキストには著者と李景林の肖像写真が載せてあった。国術館では太極拳は必須科目であった。

◎梅花螳螂拳については、生徒の多くが数年の学習暦があったが、その他の拳法の学習を始めたばかりで、断片的に教える事が難しかったため、班に分けて教えた。

その内容は、梅花路、乱接、崩歩、八肘、摘要などであった。

◎武器は主に長槍、短刀、棍術、剣術で、規定の套路を全員が学習し、それが卒業試験の内容となった。

国術館では、規定の拳術や武器の套路以外に、朝晩を利用してお互いに八卦掌や猴拳、武器は、鉄鞭、虎頭鈎、馬?等を学んだ。

 
 

国術館内の空気には、学習意欲と情熱があふれていた。当時、私は毎日夜になると足を運んで、その光景を見つめていた。猴拳は、本当の猿が飛び跳ねるようであり、地?拳は、身を翻したり倒れ込んだりし、黒虎拳は屋内の壁を震わせるような気合を帯びていた。

また一枚の板を壁の上に渡し、拳を鍛えるためで逆立ちをしたり、二人で対練対打する者など、様々な姿を見ることが出来た。

◎学生が練習や交流している時は、父や数名の老師達はじっとその様子をみていた。そして、門派ごとの長所を研究し、その優れている点を学生に話して、更に練習をするよう勧めた。

こうして教師と学生の間の信頼は更に深くなり、門派に対するこだわりも徐々になくなっていった。後にある学生が、(秘伝である)鉄砂掌に用いる、薬の作り方を記した文献を父に持参したほどである。

◎国術館では、武術学習班以外に、10人程度の人が、病気の治療の為、気功を学んでいた。体が弱く、腫病、心臓病、腰や足の病を持つ人が多かった。教師たちは、毎日2回彼らに排気功を施した。

数ヶ月から半年で彼らの病状は回復し、国術館から離れていった。彼らの学費もまた4元だった。

◎国術館の教師達は、外部でも拳術や排気功を教えていたが、その収入は個人のものとなった。1934年から父は、莱陽中学と二つの村で武術教員をやっており、毎週それぞれの場所で教授をした。

王老師は、莱陽中学で学生に排気功を教え、李、張の二人の老師は莱陽市内の政府機関で太極拳を教えた。

◎国術館の教師は学生の武技のレベルを上げるために、毎週半日をかけて、拳法と武器の演武と二人の対練を行なう「国術大表演」を行なった。拳法は太極、螳螂、長拳、八卦、猴拳、地?、形意等。武器は、大刀、長槍、三節棍、大棍と宝剣、短刀、鉄鞭、虎頭鈎等だった。

教師たちも時間があれば参加した。ある日学校が終わってから帰ってくると、ある学生が馬?の演武をしていた。始めは腕から頭の上を回っていたが、突然高く放り投げ、再び体の上で回り始めた。

観衆は大騒ぎしなかったが、彼の表演と馬?の技量を褒め称えた。馬?の演武が終わったあと、空手進白刃を教師と二人で行い、止むことのない喝采を受けた。

◎1934年夏、山東省済南で全省国術試合の開催に当たり、全省各県の国術館に、技量の優れた武術家の参加通知が行なわれた。莱陽国術館では、李昆山老師は武器で、王玉山老師は拳法で参加した。

済南の試合では、李昆山は大槍対刺で、全省第一位となった。王玉山は、拳法対打に参加した。第1回戦で、韓復榘の狙撃隊の部隊長を試合場の下に突き落として気絶させてしまったため、続行不能となってしまった。

しかし王老師は李老師と共に、南京の全国大会への出場権を獲得した。結果、李老師は大槍で全国優勝し、銀(?金の間違いか)の盾を持ち帰った。王老師は試合の中で、判定負けとなり勝利には至らなかった。

◎私は、教師達から南京での試合の状況を聞いて、それがどのようなものだったのかようやく分かった。王老師は済南での試合で、太極提(?太極手の間違いか)を用いて、隊長を試合台の端へ追い詰め、陰陽迭掌を用いて試合台下へ落としてしまった。

当時、狙撃隊では物議をかもし出すほどの大騒ぎとなり、武力を用いてその資格を取り消し、罪を償わせようとしたが、韓復榘はこれを許さず、逆に「黒大漢の武術は素晴らしい」と褒め称え、再試合を阻止した。

李老師の大槍の腕前はすさまじかった。試合のときは長い棒の先に綿を巻いて、赤い色を付け、選手は白い服を着る。試合では赤く色の付いた方が、刺されたことになり、失点となる。試合は大体3:2または2:1で勝敗が決まる。

李老師の棒は、毎回相手を刺殺しており、相手は李老師を刺す事すらできなかった。元々、李老師はこの大槍術を叔父の李旦白から学び、李旦白は、神槍張永燕から親しく教授されたものだった。その張永燕は、滄州のある老師から伝承を受けた。

滄州のある老師とは、万里の長城から北方の江湖として過ごし、故郷へ帰った後、村のボスを撃退したことから、百を超える清の騎兵隊に追われる身となり、彼は槍でそのうちの数十人を殺傷して、馬を奪い?東に逃げ延びた。彼は張永燕にその槍術を教えて、3年でいなくなってしまった。

 ◎済南と南京での武術試合が終わり、李、王の両老師が戻ってから、莱陽では新しい展開が始まった。

暫くして、国術館で第一回の試合が行なわれた。試合は拳法と武器の二項目に分けられ、国術館の生徒以外の、県或いは県外からの武術愛好者も参加した。

当時、試合にエントリーした人数は200名を下らなかった。拳法と武器それぞれ十数名の使い手が選出され、賞品や賞状なども贈られた事から大いに盛り上がり、二日間にも及んだ。

崔寿山の息子、崔洪照が拳法で第一位となり、李昆山の弟子が、大槍で第一位となったのを覚えている。

また対打の試合も大変激しく、審判は、誤ってのケガ人を出さないようにすることが、重要な任務であった。

 
 

試合のルールは顔への攻撃と股間の蹴り上げを禁止していた。武器では、相手を傷つけるのではなく、ちょっと触れることで勝負を決定した。これに違反したものは出場資格を取り消された。

少しでも笛が鳴れば、選手は必ず手足を止めて、審判の指導に従わなければ成らなかった。こうしたルールの中でも、審判は心を引き締めて試合に望まなければならず、左手は口にくわえた呼子を握り、ケンカを止めるように右手を顔の前に伸ばした姿勢をとっていた。

◎痩せた選手と太った選手が出場した拳法の一試合でのことだった。打ち合いの中、突然痩せた選手が、太った選手の左大腿にとび蹴りを放った。太った選手は、この時、審判からの笛の合図を無視して、体をねじって斜腿を痩せた選手に放ったのだった。

もしこれが当たっていれば、大ケガにつながっただろうが、審判は眼にもとまらぬ蹴りを飛ばし、太った選手の足をさえぎった。彼はバランスを崩してその場に倒れ、ケガの発生を免れたのだった。

◎試合会場では、それぞれの門派の長所がうかがわれた。八卦門は、円を描くような動きの中に蹴りを用い、猴拳は軽快な動作でひっかくような攻撃を用いた。地?は相手を誘って突然足での攻撃を行なう。

太極拳は「四両千斤をはじく」通り、静を以って動を制するに長けている。長拳は、大きく拳脚を振るうことに長けていた。螳螂拳は、虚歩の姿勢で両手を前に出した閉手から、突然拳脚を連発させる。当時の観衆からは、螳螂門は技の変化が多く、拳脚のスピードがあり、ピストルの弾が連射されるようで、よける事が難しいと評価された。

◎市内では武術試合が、まるで歌のように流行し、国術は民族遺産であり、社会上重視するべきだという風潮ができつつあった。しかし、当時の役人は、「国術館の?を振りまわす乱暴者」と見ていた。文化程度が低く、単純で、喧嘩好きという意味である。

◎国術館の教学の活動と試合を開いた影響で、山東省や他の省から、若者から老人までの拳師たちが少なからず訪れていた。彼らは技の交流に来館し、毎年20人をくだらなかった。

或る時、一人の六,七十歳の老拳師が屋外で表演したとき、数回の前周り受身の型を演じたが、思いがけず3センチくらい突き出た石で背中を打ち、起き上がれなくなってしまった。王老師はすぐに駆け寄り、彼を抱き起こした。

彼は足を伸ばして、また地面を転がる演武を行ったのだった。50歳くらいの人は、「私は少林寺に行ったことがあるが。そこはすでに壁が崩れて面影はなかった」といった。

◎国術館の螳螂拳師たちは、教学の空いた時間に、よく梅花螳螂拳の歴史について話をした。彼らは姜化龍老師より昔の拳師たちの話をしていた。姜化龍の先生は梁老師で、梁の先生は趙珠であり、趙の武技は、李二爺が伝授したものだが、その武技をさずけた者の姓名はわからなかった。

王朗が螳螂拳の祖師という伝説だが、彼がその後誰に伝えたのかは、はっきりしない。だから李二爺はどのように螳螂拳を学んだのか。事情は次のようである:

●李二爺は、海陽の出身で、貧しい官吏試験を目指していた書生だった。彼の叔父は四川の官邸に住む司馬であり、彼は四川に行き、皆から李二爺と呼ばれた。或る時、監獄で一人の盗賊が病気を患っている光景に出くわした。

獄卒がいうには、この盗賊は傷寒をわずらっている所を捕らえらたのだという。李二爺は目を盗んで薬を煎じ、盗賊に飲ませた。病気が治ると脱獄し、助けてもらった恩を返すため、李二爺に螳螂拳を教授した。

後に、李司馬が北京の路上で刺殺され、李二爺はふるさとに戻って拳を教授した。或る時彼は、李司馬のもとへ行こうとして大門にさしかかった時、野犬の群れに襲われた。彼は、後から噛み付こうとした犬の舌をつかみ振り回して殺したので、他の犬は逃げ去ったのだった。

このことから彼は武名を上げた。李は多くの生徒に拳を教授したが、その中で最も優れていたのは趙珠だった。趙珠の家は屠殺を生業としていた。趙珠は老師を敬い、よく豚の内臓を李二爺に送り食べさせた。

李二爺は趙珠に尽力で武芸を教授し、趙珠も苦しい練習に耐えて、李二爺の全伝を継いだ。教師たちから聞いた話では、螳螂拳の先達の武芸は群を抜いていたが、社会的な地位は皆低く、李二爺は、貧しく官吏試験を目指し、趙珠の家は屠殺業であり、姜化龍の家は僅かな田畑しかなかった。

彼らは皆向上心が強く、苦しい練習を積んで武芸を学び、これを維持し、多くの人と戦うことで経験を積んだ上で名を成したのである。

◎国術館の教師と生徒は多くが品行方正で、金よりも義を好んだ。彼らはよく梁山泊の英雄の話をしたが、どのように金を投資して商いをするかとか、昇進して金を儲けるかの話はしたことがなかった。

彼らは当時、国民党県長の梁秉?の反共暴力に大きな不満をもっていて、よく議論をして罵っていた。当時、梁秉?の子供の梁学漢は、私と同じ莱陽中学の同じクラスにいたが、父は、私を彼から遠くへ離して教育を施し、彼の家へ遊びに行くことも禁止した。

数年の歳月が流れ、国術館には正義を保持する気質が出来上がっていた。或る時、梁秉?の悪事を働いた兵の一人が、国術館の厨房へ逃げ込んだが、教師と生徒によって外へ放り出された。

◎国術館の教師と生徒は、莱陽市内で過ごした数年間の間、市内とその周りで起きた不正な迫害を打ち破るために手を貸した。2,3人或る時には7,8人で行なわれた。人を傷つけるのではなく、悪さを正すことだった。

徐徐に不正な迫害は減っていった。国術館の教師と生徒の正義の行いは、人々に賞賛された。

◎「7・7」事変が起きた。櫨溝橋での戦闘の中、宋哲元の部下で兵役に当たっていた張哲生鎮長の子供の張家憲は、国のために戦死したが、七人の日本ファシスト兵を大刀で切り殺した。

彼は莱陽国術館の生徒で、教師と生徒は喜びと共に哀悼の意をささげた。抗日戦争の中、国術館は50名の学生を、韓復榘の部隊ではあったが、軍に送った。後に大刀隊は、黄河北岸の日本軍の前線基地を攻め、国術館の生徒の参戦で武功をたてたと聞いた。

◎1937年8月、国民党県長の梁秉?は多くの富を携えて、煙台から逃げ出した。莱陽は混乱に陥り、梅花螳螂拳の拳師たちが設立した莱陽国術館は、5年間で解散したのだった。

漫談拳術

張詳三著~七星螳螂拳より

人間の力は、腕・腰・脚に分けることが出来る。これらを合わせる事が体力であり、体力の中では、脚の力が最も重要である。だから拳を練る者にとっては、先ず站歩を行なうのであり、脚の力をつけることが、各流派で昔から継続して行なわれているのである。

歩の種類は甚だ多く、おおよそ弓歩、馬歩、丁字歩、八字歩、長山歩、金鶏歩、跟歩、流水歩、前提後??歩、跳歩、玉環歩、滑歩等種類があり、書き尽くすことは難しい。但し、弓歩、馬歩は基本の歩法であり、弓馬歩は站歩を行なうには適しており、脚の力をつけ、挙鼎劈山の力を生むのである。

腰の力は全身を支え、腕の力は振り打つ力を発揮することを可能にし、各種の歩法は身形に従って変化し、弓、馬歩に合致し、跟歩?歩は前に進むことに適しており、?跳は追随することに用いる。滑歩は進退閃転に用い、中門を守る余裕を持つ。

歩の種類は多いといえども、芸が成った後では一般で言う、「丁に非ず、八に非ず、弓に非ず、馬に非ず、どんな勁にも従い、どのようにも発する」このように、心の欲するところに従って到達できてはじめて、大乗というのである。

七星蟷螂拳は玉環歩を主とし、六合蟷螂拳は前提後?歩と滑歩を用いる。前提後拖歩は、歩を進めて相手に迫り、滑歩は風に従うように揺れ動く。力を流し去り、前に進むこと一丈、後ろへ下がること八尺、唆を穿つ如く進み、左閃右転、騰?を自在に行い、軽きこと猿の如し。

これが蟷螂拳猿猴歩と言われる。(中略) また、恰錘がある。(あたかも錘の如くという意味)これは江湖が拳芸を見せるときに用いるもので、二人で打ち合うときに、指の弾力を用いて皮膚に触れるとき、ピンピンと音がするため観衆を喜ばせるのである。

或いは交流試合の時など、点で当て止めるので、怪我を防ぐことが出来る。 拳術の道は、自衛強身を以って、暴力を除き、民を按ずる事が本来の目的である。自衛の時は、必ず相手の強弱を見て、攻撃の軽重を決める。懲らしめる時は過去の過ちを戒めるために打つ部位には傷が残らないようにするべきである。

生死にかかわる様な者を相手とし、心の中に少しも手加減する気持ちがないようなときは、禁じての場所を打っても良い。すなわち、禁じての場所を打つときは、相手の殺意がある時である。人間のツボは全身に遍く存在し、死に至るもの、気絶する場所は時間に従って、正確に打つべきであるが、力がなければ深部に到達しない。

分筋絶脈点穴の名人はたくさんいるが、用いるときは、細かに点在するツボではなく、数箇所の重要な箇所に特定している。人体には72箇所の重要なツボがあり、それぞれの時間や特色に従うことは実際には用意ではない。その一部分を打っても、面積は広く有効とはなり難い。心して練習し、努力すれば成果は得ることが出来る。

八箇所の打つべき場所と打ってはならない場所(八打八不打)を、後学の参考に簡単に紹介する。

八打

眉頭双睛
打曲池双臂
打鼻下人中
打撩陰高骨
打穿腮耳門
打鶴膝虎脛
打背後骨縫
打破骨千斤

八不打

不打太陽為首
不打対睛鎖口
不打中心両壁
不打両脋肺腑
不打海底撩陰
不打尾閭鳳府
不打両腰腰腎
不打両耳扇風

交手歌

手招架総嫌遅
閃賺騰挪法神奇
閃非空閃閃即打
打非真打分虚実
虚虚実実難招架
莫把虚来当作実
陰陽転換勿遅疑
出手必須佔先機
我不打人人打我
聚精会神莫大意

交手十忌

気浮力暴
忌立足不穏
忌身躯不霊
忌出手猶豫
忌欺敵怯敵
忌当打不打
忌神不集中
忌力不従心
忌拳不連発

 

翻車轆轆捶法

 『翻車轆轆捶法』
著者:黄漢勲先師(七星螳螂拳、羅光玉の弟子、香港) (「螳螂拳闡秘」、同名文章を抜粋)  

羅(光玉)師はかつて、こうおっしゃいました。翻車は速く而して蟷螂は密なり、翻車は遠いが螳螂翻車は近い、と。螳螂翻車、これはその運用において動作が連繋することが実際として大変重要なのです。そしてそれこそが翻車の重要な法門なのです。

(螳螂門では)四面を敵に囲まれ、その包囲から抜け出すのが困難になったとき、必ず翻車の手法をもって包囲の線を衝き、これを破らなければなりません。その後、螳螂の手を翻車と互いに合わせ用いれば、すなわち功はその場にあらわれてくるでしょう。

しかし、いったい翻車の法とは何をさしているのでしょうか?それを説明しないわけにはいかないでしょう。翻車の法、それは先に両手で拳をつくり、両手を左右に分け、上から下に劈をし、下に来たら上に反対に返り、既に上があれば下を削ることを言います、そしてその動きの纏繞は一時でもとどまらせてはなりません。

手を発したら対方がどのよう姿であろうとかまわず、全身で目標に向かって猛進し、ついには深くにわけ入り、はじめて止まるのです。この種の手法を使用する時はその場において、必ず先に自分にこの手を長く維持するだけの気と力があるのか観察しなければなりません。

また翻車の手法だけに頼って敵を撃とうとしてはいけません、これは相手への突入において利用するものなのです。翻車の手法を用いたら、すぐに泰山圧頂や迎面直統、黒虎偸心などの手法を続けて施すのです。もしそれらが無効であったなら、必ずや瞬時に判断を下し、その場で柔手に改めるか、左右に閃歩し、敵がどのように我の法を制しえたのかよくよく観察し、そしてそれから再び相手を撃ちに行くのです。

もし相手が、我が少しだけ退いたのにあわせて我に進み迫り、我に息をつかせるだけの機会を与えなかったとしたら、それはすなわち、そのとき我は相手に制御される被動(動かされている)のポジションに陥ってしまったと言うことなので気をつけなければいけません。

このような状況下では我はいつでも相手に打ち倒されるであろう可能性があります、すなわち非常に危険な境にいるのです。 戦争の道、それは時時に応じて相手と主動を争い取ることこそが勝ちを決める条件になることに他なりません。そしてそこでは、たとえすでに主動をとっていたとしてもすぐにでも被動へと容易にかわってしまうことがあります。

すなわち我がしばらくの間主動をとっていたとしても、もし敵に再び先を占められてしまったら、我が絶対に負けないということはありえないことなのです。故にそれこそが生死存亡の境目なのです、これをみても先に手を下したものが強いと言うことは認めないわけには行きません。

翻車の手を瞬時に変化させ轆轆捶となす、左右を定めず、あるいは左が進むをもって右を退き、もしくは右で入れば左が出る、そのとき必ず身体は半身(偏身)にし、架式は低く(低馬)とらなければなりません。そして相手の一手が力を失う(過頭)、まさにその瞬間に相手の圏内に進むのです。

手と歩は共に同じく一致させ、目的を達することに務め、それによって止まるのです。もし対方が方向を改め移してきたら、すなわち我もまた左右跨歩の法を用いて、相手の側方からこれを打つのです。以上のことは、(螳螂)拳を学ぶ者にとって知らないというわけにはいかないことなのです。

 

注) 全体的にかなりの部分を意訳しています。また本文中理解しにくいであろう部分には勝手に言葉を付け加えました。もしさらに良い訳がありましたら、随時訂正をしてください。筆者は有名な七星螳螂拳師の故黄漢勲氏です。黄氏は羅光玉の南方における弟子の一人です。

黄漢勲氏は七星螳螂拳に関する書を三十種類余り著しています。現在ではもとの版権を持っていた出版社の倒産により、いまや手に入れられるのは十種類余りになってしまっているようです。

轆轆と轆轤は同音異字です、同じものを指しています(但し轆轤は物、轆轆はその轆轤の動きを表現)。内容について皆さんに御批判、感想等をいただけたら幸いです。