螳螂拳源流考(3)
螳螂拳源流考其の二(于景元、梁恵憂)
梁学香先生の長男、梁井川は清朝末期武科挙に合格し、武術は父からその真伝を得て螳螂拳の技法を発展させた。彼の弟子(第5代)は孫の梁振照であり、現在も海洋県于山④村に住んでいる。
梁学香先生の弟子赫連玉は山東省煙台の人で、梁井川とは兄弟であり、螳螂拳の真伝を得て、現在は煙台の赫斌老師がその技を受け継いでいる。
梁学香先生の弟子姜化龍は山東省莱陽県黄金溝村の人である。彼は元々「地功拳」を学んでいたが、別の拳術に試合で敗れ、武芸の精進の甘さを深く反省し、梁学香先生の門下に入り螳螂拳の修行に身を置いた。十数年して腕をあげた後、煙台で教えた。
弟子の宋子徳と共に梁師螳螂拳の理論を基礎に、長年の拳法修業の精華を合わせて一冊の拳譜を書いた。また彼は一人で第七段摘要と呼ばれる「地功精」の套路を作り、更に「羅漢拳」の中の「翻車」を螳螂拳の中に組み込んだ。
姜化龍は螳螂拳の発展に対して卓越した貢献を行ったのだ。姜化龍は煙台に長年住み、69歳で亡くなった。梁井川、赫連玉、姜化龍は螳螂拳の第四代の伝人である。
ここから太極梅花螳螂拳は三派に分かれ、伝承されていくのである。
第一の流れは梁井川の教えを受けた黄永凱であり、山東省海洋県の人である。彼は小さい頃から梁家にて螳螂拳を学んだ。民国2年に煙台にて道場を開き、4年後には安東市(現在の丹東市)で螳螂拳を教えた。その後民国10年に一度煙台に戻った。
そこで弟子の林世欽等は、黄永凱に煙台で螳螂拳の教授を続けて欲しいと懇願したが、黄永凱は林が陳徳善より自由博撃術を学んでいることを知り、安東へ帰った。この時以来煙台には戻らず、後に安東にて亡くなった。
黄永凱の弟子林世欽は山東省煙台の人である。民国2年から黄永凱の下で拳を学ぶこと4年、当時林はまだ14歳であった。その後軍隊に入隊し抗戦時に重慶で 開かれた試合に参加している。当時47歳であった。林世欽はこの試合で地方の拳士に及ばず、後に煙台に戻り、解放後に世を去った。
黄永凱の弟子紀忠徳は煙台の人である。当時は港で働いていた。拳を学んでいた時、赫連玉の子赫恒路と争いとなったが、その後落ち着いた。この為、紀忠徳は上海に出て拳を教えて生活した。
黄永凱の弟子于世遠は山東省莱陽の人である。安東にて黄永凱の門下に入り、安東で行われた少林武術大会と試合に参加した。また二度ほど日本人との武術試合にも立ち会い、共に勝利した。
後に日本人の報復を避けて吉林臨江林区に至り、鶏西、伊春などの地を転々とし、解放後四平市に居を構え、螳螂拳の多くの套路と「十八羅漢拳」の套路、長・短の兵器を教授し、梁家から伝わった螳螂拳譜と多くの理論の一部を保存した。
于老師は四平市の武術活動の発展に大きく貢献した。于世遠老師は1978年10月17日脳溢血が原因でこの世を去った。享年73歳だった。
以上が螳螂拳の第一の流れである。
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