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螳螂拳源流考(2)

螳螂拳源流考其の一(于景元、梁恵憂)

螳螂拳は明代末期から清代初めに陜西省淳化拳士、王朗(字は文成)が作り出し、伝えたものだ。王朗は、カマキリが蝉を捉える巧みですばやい動きと、激しい動きを見て深く感銘を受け、黏、粘、幇、貼、来、叫、順、送、提、拿、封、閉、勾、、采、掛などの武術としての手法を編出し、北派螳螂拳の風格を作り出した。

北派螳螂拳は早い時期から山東省膠東一帯に広がり、以後徐々に流派が分かれたのだ。主な流派には太極梅花螳螂拳、七星螳螂拳、六合螳螂拳があり、その他にも北派螳螂拳をベースにその他の拳術を混ぜた螳螂拳もある。

例えば通臂螳螂、馬猴螳螂、手螳螂、鴛鴦螳螂、光板螳螂、八歩螳螂、金踐螳螂、明古螳螂などである。それぞれの風格は、その螳螂拳の体系に大きな影響を与えている。ここで北派太極梅花螳螂拳の主な師承伝人を以下簡単に紹介する。

螳螂拳を作り出した王朗の第一代の伝人は趙啓禄である。又の名を趙柄栄と言い、幼名を趙珠という。山東莱陽県趙家人である。彼は勤勉でかつ武術を学び、少年期には文才にあふれており、武術の腕前はずば抜けていた。そして陜西省淳化県の役人として赴任していた。

役人を辞めて故郷に帰った時、螳螂拳を莱陽に伝えたのだ。趙は長年の稽古と工夫の末、その妙技を得た。そして「崩歩」「分身八肘」を基礎に他の拳術の精華を加えて、更に螳螂拳の力の特徴にしたがって「乱截」の一套路を創設した。

このことは螳螂拳の発展にとって大きな貢献となった。趙啓禄は螳螂拳の第一代の伝人である。

趙啓禄の弟子は李炳霄である。若い頃より医術を学び、その腕は大したもので、人の為に尽くした。ある晩秋、盗賊が住処から離れた場所で病に犯され、たまたま通りかかった李炳霄と遭遇し、看病に尽力した。

それに多いに感激した盗賊は、病が癒えた後も一年程李家に留まり、自らその武技を李炳霄に伝えたのだった。その武術がどのようなものだったのかは、その考証する資料が無い。その時より李炳霄は武門へと足を踏み入れた。

こ の頃趙啓禄は役人を辞めて故郷に帰っていたので、李はすぐにその門下生となったのだ。趙啓禄はその人格が優れているのを見抜き、心より技を伝授したので、 李炳霄は螳螂拳の一大拳士となった。李炳霄は晩年「崩歩」「乱截」「分身八肘」と学んだ武技のポイントを取り出して、六段の「摘要」を作り出した。

以後歴代の拳士は軽々しくこの拳を伝えなかった。李炳霄は螳螂拳の第二代の伝人である。

李炳霄の弟子の梁学香は山東省海洋県于山村(莱陽県との県境)の人である。彼は幼い頃より李家で働いていた。彼は頭が良く学問好きで、李炳霄が稽古をしているとその傍らで盗み見て拳を練った。ある晩、いつものように盗み見た拳を自分で練習していると李炳霄が現れた。

李はその熱意に感動し、自分の弟子とした。学香は十数年苦労して螳螂拳の修行を行い、大きな進歩を遂げたのだった。当時の武林での名声は高く、陜西「十大刀客」を退けた。 梁学香は三冊の本を著し、螳螂門の発展に大きな貢献を果たした。

螳螂拳の拳理、拳譜は全てその中に現されている。その中の一冊「拳棍槍譜」は咸豊年間に「徳順堂」の名で著わされた。更に一冊の「拳譜」は1853年に書かれている。もう一冊は書かれた年代は不祥であるが、一部に挿し絵が入っている。

この三冊の本は140年前に全て書かれたものであり、螳螂拳の元々の姿と当時完成された姿を現した貴重な資料である。 梁学香先生は「拳譜」の中で3つの套路を整理した。即ち「崩歩」「乱截」「分身八肘」であり、以後歴代の拳士はこの三拳を螳螂門の中心とし、「崩歩走、乱截守、打人看八肘」の説を生んだ。

梁学香先生は後に北京に出て、シルクの店を営んでいた。経済的にも裕福で、その武術の腕は高く、長男の梁井川と共に、当時の武林で「梁家父子」とあだ名された。梁学香先生は螳螂拳の第三代の伝人である。

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