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趙竹渓先生

 趙竹渓先生は1930年代、南方へ螳螂拳を伝播した人物の一人である。その弟子は七万人を超えると言う。独特の風格を持つその拳芸は、螳螂拳を超越した武術であると言える。

 我々は2019年春、片桐陽氏からご縁を頂き、カナダの陳慶澐先生との交流でその拳風に触れることが出来た。以下趙竹渓先生に付いて紹介する。

【趙竹渓】

 趙竹渓(1900~1991年)は字を長青と言い、山東掖県沙河鎮旺村趙家庄の人である。孫元昌の再伝弟子であり、太極螳螂拳第七代伝人である。南洋各国に螳螂拳を伝えた名師であると聞く。

 趙竹渓は五歳の時に母を失い、12歳で平度大澤山智蔵寺に入り太祖長拳を10年に渡って学び、22歳で掖県沙河鎮に戻って八徳勝鏢局で鏢師を一年余り務めた。鏢頭の死後、八徳勝鏢局は店をたたんだので、1924年趙竹渓は掖県を離れ、煙台で商売をしていた叔父の元に身を寄せた。当時の煙台は武術を学ぶことが大変流行っていて、武館が林立していた。趙竹渓はそこで見聞を広げたが、特に激しく気勢の凄まじい螳螂拳に惹かれ、螳螂拳の名人である任鳳瑞、遅守進を拝して七年間に渡って太極螳螂拳を学んだ。遅、任の二人の師は孫元昌を師とし、孫元昌は即ち梁学香を師としていたのである。

 武術から離れることができす趙竹渓は叔父に背いて武館を開き、1930年以降香港に移り、相次いで厦門、香港等の地で武館を開いて15年間拳法を伝えた。抗日戦争に勝利した後、趙竹渓は広州に移り住んで武術の伝承を続けた。

 1969年ベトナム精武体育会から招請を受けてベトナムに移って教鞭をとり、その後香港に戻って定住し拳法を教え、医術を行って生計を立てた。

 1990年までに、趙竹渓は螳螂拳を米国、カナダやオーストラリアなどの数十の西側諸国に伝え、弟子が大変多く、7万人の人々に拳法を伝えたと称するほど空前の盛況だった。

 東南アジアの主な伝承人は呉慶秋、黄耀斌、謝賜栄、李火煙、蒋耀輝、鄭華秋らがいる。アメリカの主な伝承人は鄭通治、呉秋、方国梁、王林陵らであり、オーストラリアは林子強、カナダには霍偉楽、黄傑漢、李智偉らである。

 趙竹渓の太極螳螂拳は、少林太祖門の精華と太極摩雲掌が混じりあったもので、自分の風格と体系を作り出している。趙竹渓は多くの奇門兵器を融合して自分の拳術の体系に入れており、その拳術の套路は山東の同門と比べると少ない。彼は厦門にいる間、南派の詠春拳の優れた点を吸収して「少林仏樁」百八式を創り、自身の武術体系を豊かに発展させたので、その伝人は「竹渓太極螳螂」と改称して、山東の太極螳螂拳と異なることを識別した。また「山東少林太極螳螂門」とも呼ばれた。

 趙竹渓一派の太極螳螂拳の特徴はハッキリしているが、その根本の源は依然として任、遅の両師を通じて梁学香から来たものであり、それは莱陽螳螂拳を発現地とする螳螂拳なのだ。

 趙竹渓の晩年は主に経穴と気理などの漢方医学の理論を利用して、民衆のために跌打風湿などの病気を治療した。1991年この名声の高い南洋の螳螂拳大家は螳螂拳への未練を胸にこの世を去った。

莱陽三合功一代宗師李丹伯先生の記念碑発見2

 イリアさんが発見した記念碑は、2017年1月3日のネットニュースでは、「地功拳、螳螂拳一代の宗匠、李丹伯民国記念碑が発見」として話題になったようである。

 以下ネットニュースの記事を日本語に意訳して紹介する。

 「地功拳、螳螂拳一代宗匠、李丹伯民国記念碑が発見」

 山東省莱西市店埠鎮中由格庄村で李丹伯老師の記念碑が発見された。地元の人によると、李丹伯老師の記念碑はもともと店埠鎮中由格庄村東入口路の東側に建てられていたが、1990年代、計画上の必要により、村委員会が大院の境内に移し保管していた(*実際には、文革後道の石畳として使用されていたようです)。

 碑は白い花崗岩で、上部には丸みのある四角い碑で、碑大きさは高さ1.75m、幅0.67m、厚さ0.15mである。

 碑の正面の真ん中には「李丹伯先生記念碑」と言う文字が縦に刻まれ、左側に弟子36人(*王玉山師爺の名あり)、孫弟子14人(崔寿山先生の名前あり)の氏名が刻まれ、右側には碑を建てた親戚や友人の氏名が刻まれている。碑の裏側の碑文には、李丹伯老師の生涯の事績が記されている。

 李銘閣(1858-1911年)は本名を李仲翔、字を丹伯と言い、張炳斗先生の曾祖父である。李老師の体格は立派で腕力は並外れて強く、人柄は朴直で、義侠心に富み勇敢に行動する人であった。幼い頃から高殿基を拝して師として武術を習い、人並外れた能力を持っていると言われ、羅漢拳、地功拳に精通していた。

 彼は頭、手、足の功夫がとても優れていて、指は鉄のように堅く、その蹴りは飛ぶハエを粉々にすることができた。銘閣は拳法に精通しているだけでなく、知らない兵器はなく、槍の腕前はとりわけ優れており、自らその槍法は趙子龍の衣鉢を受けていると言い、当時の人も「趙常山」と呼んでいた。丹伯の名は天下に鳴り響いた。

 李銘閣、姜化龍、宋子徳の三人は義兄弟となり、その信頼は海のように深く、お互いに拳を交えて交流した。以後、李丹伯は羅漢拳、地功拳、螳螂拳を一つにして「三合功」と名づけた。姜化龍は羅漢拳などのエッセンスを螳螂拳に融合させてさらに進歩させた。化龍はさらに丹伯の拳法と螳螂拳のそれぞれのエッセンスとなる技を抜粋して変化させ、十二の単招式をアレンジして「奇要」(要中要ともいう)と命名した。螳螂拳の「奇要」と言われるのはこれを指すのだ。姜化龍はこの「奇要」を簡単に人に伝えず、愛弟子の李昆山一人しか伝えなかった。

 光緒27年、(清朝は)武科を廃止した。突然の武官への道が閉ざされた現実は、武学で高位公爵を取ろうとした李丹伯の遠大な野心と望みを打ち砕き、武挙で得られる官職の望みを取り戻すことができないまま、李丹伯は武館を設けて弟子を採って自らの楽しみとした。(莱西文史資料を抜粋、著者:張炳斗)。

莱陽三合功一代宗師李丹伯先生の記念碑発見1

ロシアの螳螂拳研究家であり、文化人類学者であるイリア・プロファティロフ(Ilya Profatilov、青島在住)さんが、三合功(螳螂拳、地功拳、長拳を合わせた李氏拳法)の一代宗師である李丹伯先生の民国時代の記念碑を発見した。

 彼と親しく交流をしている片桐さん(バランスアカデミー主宰、六合螳螂拳を中心に螳螂門全般を研究)からその情報を頂いたので、遅まきながら螳螂拳の新たな事実の記事として掲載する。

 片桐さんがイリアさんから受け取った連絡によれば、2004年の夏頃、李昆山先生のルーツを探るべく莱西市店埠鎮に入った処、村内で李丹伯先生の石碑があることを聞き、改めて2005~06年の正月にかけて現地を訪れ、石碑を確認したとの事である。

 李丹伯先生は、姜化龍、宋子徳両先生と義兄弟の契りを結び、清末民国初めの膠東の武術の発展に大きな影響を及ぼした。特に姜、李両先生の比武は「泰山北斗」として知られる処です。また「李銘閣」の名前は、1935年にまとめられた莱陽県志にも載る程、実力の高い武術家であった。