宋子徳
1855~清王朝咸豊五年/日本ではペリーの黒船が来た頃)
◎字を耀坤という。山東莱陽県の人。家は裕福であり、宋二爺と呼ばれていた。
◎早くから、長拳、猴拳を学んでいたが、後に姜化龍と出会い、その功徳に惹かれその螳螂拳を学んだ。
幼い頃より学問を修め、かつ長拳の基礎の元に螳螂拳を研鑚したので、拳と理論がはっきりしていた。姜化龍よりその才能を深く認められ、年齢も同じで、趣味志向も似ていたので、義兄弟の契りを結んだ。
◎姜化龍と共に、梁学香の伝えた拳譜を技芸と共に整理して、系統的な螳螂拳譜にまとめあげた。
莱陽、煙台などで道場を設けて教授し、王玉山、崔寿山、宋環亭、紀春亭、姜吉和などの螳螂拳師を育てた。
後に「莱陽三大山二亭」と言われた門人達であり、莱陽三大山の内「王玉山、崔寿山」の二大山は宋子徳門下として知られている。
◎周振東の「煙台螳螂拳史話」によれば、宋は多くの武術家たちから挑戦を受けたが、よく対戦相手を一丈近くも吹っ飛ばしたという。
また或る時、宋が、屋内で友人の気功治療を行なっていたが、ある武術家が試合を申し込みにきた。
しかしそこに置いてある靴の大きさを見て、宋が鉄塔をしのぐような巨人と思い込み、闘志を失い逃げ帰ったという。
靴は無駄な戦いを避けるためわざと置いてあったのだという。ここに前代までの梁学香、姜化龍などとは違ったタイプの現代的な武術家が誕生したのだと思う。
螳螂門にとって大きく発展する改革は、まさに宋子徳によって行なわれたものと言って過言ではない。
逆にいえば、姜化龍の拳は現代に伝わるものより、はるかに泥臭いものだったということだろう。