Site menu:

ブログロール

分会リンク

梁学香

◎字を書圃といい、海陽の人であった。 周振東の「煙台螳螂拳史話」によれば、痩せて小さかったが、動作は俊敏で、道場においてある大きなテーブル(八仙卓という名で一辺に2人の仙人が座ること が出来、合計8人が座ることのできる大きなもの)に衣服が少しも触れることなく、稽古をしたという。

◎体格にはあまり恵まれなかったが、試合中、対戦相手を拳で撃ち殺してしまったことから「梁鉄錘」のあだ名で海陽を震え上がらせた。しかし、農作業に従事するときなどは、非力ゆえ、穀物を担ぎ上げる事ができず、父親からいつも怒鳴られていたという。

◎梁はその若い頃は、保?(現在の荷役のボディガード)を生業としていたという。銀を積んだ荷物をガードすることとなった日、現在の河北省滄州を通過しなければならないこととなった。

ここは史記にも歌われるように燕趙の時代より盗賊が頻繁に出没する地域であったから、梁も気を配って宿をとったのだが、果たして賊の襲来を受けた。その数30、40人。手には武器を持って襲ってきた。

梁も武器を手に戦い、賊をなんとか蹴散らし、無事滄州を通り抜けたが、その戦いのすさまじさ故、辮髪が解け、目に張り付いたまま戦ったため毛髪との摩擦が原因で目に傷を負い、右目を失明してしまった。

「梁一眼」とあだ名されるようになったのはそのためだという。その後保?から足を洗うまでの間、こうした血なまぐさい戦歴を重ねたが、負けることは無かった。

そして、故郷へ帰り道場を開いて、拳術を教授した。晩年の逸話に次のような話があるという。

●弟子の姜化龍が、梁のために赤い瓦葺の家を建てた。完成後、姜は師父を招待して、得意げだったが、梁は一目見ると「余り丈夫そうな瓦ではないな」といった。姜は慌てて「全て上等な瓦を使いました。

しっかりしています。」と答えた。梁は壁にもたれかかると、瓦は姜の目の前にばらばらになって降って来たという。

◎晩年の爽やかな秋の日、乱接拳の一套を練り、藤の椅子に腰をおろして目を閉じたまま、帰らぬ人となった。

◎梁学香は北京に出て、シルクを扱う店を営んで息子の景川ともに豊かに暮らしたとも聞く。面白いことに、全く正反対の印象を持たせる話である。梁景川も父より武芸を学んでいたようだが、拳技は姜化龍に伝えたようである。

◎また梁学香は、七品官という地位を賜ったということと、最古譜「入門全解」を残していることから文才にも長けていたと容易に想像することができる。

武館を開いて拳を教授し、武侠として百戦練磨の功績によるせいか、螳螂拳はこの梁学香の伝承から大いに広がり始める。本門(太極螳螂門)の実質的な宗家といってよいのかも知れない。

Write a comment